おすすめ作品10点

 私選による風太郎作品のおすすめを、ここでは10点に絞って紹介させていただきます。いきおい長編ばかりになってしまったのは仕方のないところ。しかし、すこしばかり声を大にして付け加えておきますが、山田風太郎は短篇も面白い! 特に忍法帖は、短篇の方が出来にむらも無く、安心して(?)読むことができます。ともあれ、果たしてどれをとったものか、悩みに悩んで選んだ10点です。未読のものがあったなら、是非ぜひ読んでくださいませ。面白いことは請け合います。(以下五十音順)

くノ一忍法帖
警視庁草紙
人間臨終図巻
八犬伝
魔界転生
魔群の通過
明治断頭台
柳生忍法帖
妖異金瓶梅
妖説太閤記

 以下の紹介文はネタばらしの部分がいくらかあるので、それが気になる方はそれらは読まずに、真っ直ぐ書店(か図書館)へ向かってください。どれを買っても損のないことは保証します。作者自身による評価も、いずれもAランクの力作ばかりです。


くノ一忍法帖

 まずは普通の忍法帖を一点。『忍者月影抄』でも『忍びの卍』でも、または私が偏愛する『忍法忠臣蔵』でもなく敢えて『くノ一忍法帖』をとったのは、次の一節が私に与えた衝撃の強さゆえです。

「彼の肉鞘はまさに女の体中にあった。しかし、肉鞘を脱いだ彼の男根を、まるで片腕つかんだ羅生門の鬼のように、もう一つの何物かがつかんだ。冷たい、柔かい何物かが―ひとめみて、捨兵衛の総身に驚愕の波がわたった。それは小さな、あかい嬰児のこぶしであった」(ノベルズp.201)

……これを読んだ私は、セックスの途中で女性の局部から拳が出てきたら男はどうするんだろう、と本気で心配したものです(相手が妊婦ではなくとも)。この拳は当然血まみれです。血だけではなく、羊水だのなんだの、あるいはその直前まで女陰をぬらしていただろう愛液にもまみれています。そしてその小ささにも似ず、握力は驚くほど強いのです。そんなものが男根をつかむ! 想像するだにおそろしい事態とはこのようなことを言うのでしょう。それを書いてしまった山田風太郎という人もおそろしい。

 この『くノ一忍法帖』は上に引いた部分に限らず全般に描写がしつこく、「これでもか、これでもか」と迫ってくるエネルギーがあります。忍法帖の魅力は何と言ってもそのエネルギーと忍法の面白さにある、と考える私にとって、この一篇はまさに理想的です。胎児を腹から腹へ移し替える「忍法やどかり」なども不気味千万。登場人物も、おなじみ千姫、春日局(阿福)、徳川家康にあの「南海の龍」となるだろう徳川頼宣。サービス、サービスといった感じですね。

 しかも、とこれはネタばらしになってしまいますが、最後に生き残ったお由比および丸橋の子供と、徳川頼宣がどんな関係を結ぶかまでも想像させる結末は、その後の『魔界転生』の舞台となる時代を暗示しています(もっとも事実はその逆で、後者の時代状況が山田風太郎に『くノ一忍法帖』のラストを思い付かせたのでしょうが)。まったく、山田風太郎おそるべし。


警視庁草紙

 明治もの長編の第一作にして代表作です。これがいかに面白いかを説明するかは、忍法帖より難しゅうございますが、とりあえず作者自身による、この作中の試みを紹介しておきましょう。

「第一は、警視庁の初代総監川路利良という人物とその権謀ぶりを描き出そうとした。
 第二は、今の読者のだれでも知っている有名人物―西郷隆盛、大久保利通、乃木希典から、円朝、黙阿彌、はては漱石、鴎外、一葉、また皇女和の宮、山岡鉄舟、清水の次郎長、高橋お伝などの実在人物を登場させ、しかも単なる彩りではなく、そのことごとくに必然的な役割を与えた。
 第三は、これは連作形式になっているけれど、、ただ鎖の輪のようにつながっているばかりでなく、一つ一つの物語が歯車となり、それが立体的に組み合わされ、一つの歯車が回ると、既にまわり終えた前の歯車がまたまわり出すという仕掛けにしたことである」(「「警視庁草紙」について」『風眼抄』所収)

この試みは、端的に言って成功したようです。第一の部分については、読者が最初から途中まで主人公だと信じていた千羽兵四郎が実は猿回しの猿にすぎず、後ろで猿回しの役割をしている、要するに物語を進めているのは「隅の御隠居」こと駒井相模守ですらなく、実は川路利良であったということが明らかになっていく過程の上手さがその成功を物語っています(もっともたとえ猿だとしても、主人公はやっぱり兵四郎かもしれませんが)。
 第二の部分について言えば、この技術がその後の風太郎明治ものにも生かされていることを考えれば、それが作者にとっても読者にとっても魅力的な手法であったことは明らかでしょう。この「小説というものを最終的に面白くする「趣向」のスパイス」(野口武彦)は、『警視庁草紙』の読者の想像を膨らませる点で、実に大きな役割を演じています。
 第三の部分については、これは第一の部分と連動していることでしょう。個々の挿話は千羽兵四郎と駒井相模守による探偵ものを装いつつも、小説全体は西南戦争へ動いて行くという、見える部分と隠された部分が微妙な度合いで連動する仕掛けは、作者の驚くべき技量を示しています。

 蛇足ながら一言。風太郎明治ものについて、「これは近代日本に対する批判であり、すぐれた文明批評である」といった形で言及する人がしばしば見られます。しかし、この『警視庁草紙』中に盛られた「趣向」と「仕掛け」の面白さに比べれば、文明批評云々などということは口にしたくもない、というのが私の率直な感想です。文明批評なんてものは、文明を肯定しようと批判しようと、ほぼ間違いなく退屈なものです。山田風太郎はそのような退屈さとはふしぎと縁のない地点で「小説」を書ける小説家ではないでしょうか。


人間臨終図巻

「これは絶望の書であると同時に、万人為楽の書でもある」(山田風太郎「人間臨終愚感」)

 ここに紹介したもののうち、これだけは小説ではありません。しかし、どの本にもまして私がお勧めしたいのは、実はこの本なのです。
 内容は、923人分の死に様を集め、それらを死亡年齢順に分類した「死」のカタログ。死に様といっても、そこに添えられる作者による数行の人物評はそれらの人々がどのような存在だったかを生き生きと伝えており、この本はそのまま923人分の伝記といって差し支えないかもしれません。死に行く人々に過度に感情移入することもなければ、冷たく突き放すこともない山田風太郎の絶妙なスタンスに、それを支える氏独特の明晰かつ練達の語り口は、もしこの人が批評家になっていたならどんな恐ろしい批評家になっていただろう、と思わせます。

 たとえば「西田幾太郎」の項。「天皇制はどうなるか」という自らの問いに「郷土意識としてなら残るかもしれませんね」という答えを得て、我が意を得たりとばかりにうなずき、「天皇制は、一地方国家の郷土意識に過ぎなくなるのだ」と言った西田に向かって、山田風太郎は「村の鎮守の神様というところか」と一言。この言葉で、西田が考えた「絶対矛盾的自己同一」としての天皇制もなにもが一気に突き放されてしまいます。高浜虚子の項では記事の最後に「虚子一人銀河と共に西へ行く」の句を付すあたりもまさに絶妙。この辺りの呼吸の良さは快感ですらあります。

 しかしエッセイをみれば、「これだけの人々の死を書いて、しかも死を語ることは、なお靴を隔てて痒きをかくがごとし。自分が死んで見なければ死を書くことは出来ない、という結論に達した」という言葉がみえます。その一方で、レオナルド・ダ・ヴィンチの項をみれば「同時代に、自分自身について彼ほどたくさんの記述を残した人間はいないのに、彼の死の状況はわからない。人は自分の死について記述できないのである」という言葉。この形に倣えば、いずれ書かれるべき山田風太郎の項には「同時代に、他人の死について彼ほどたくさんの記述を残した人間はいないのに、彼の死の状況は書かれていない。人は自分の死について記述できないのである」と書かれましょうか。まったく、山田風太郎が亡くなってしまったなら、そこにはもう彼の死をこそ記述すべき山田風太郎は存在しないのです。

 しかし、923人分の死および伝記を書くために、山田風太郎はいったいどれだけの書物を渉猟したのでしょうか。読書嫌いの私からみれば気の遠くなるような話であります。
 この本で私が唯一あまり好きになれないのはアフォリズムです。山田風太郎にしては凡庸な感じがぬぐえないので。


八犬伝

 見たことのある題名だからといって、これはリライトというわけではありません。八犬士たちがところ狭しと活躍する、曲亭馬琴語るところの「八犬伝」のダイジェスト、すなわち〈虚の世界〉と、その馬琴の実生活を描いた〈実の世界〉とが交互に現れる構成を持った作品。

「実は、私の発想のもとは、「作家」と「作品」の関係を書いてみたい、ということにあった。(中略)彼の作り出す作品は、彼の性格や生活とは必ずしも一致しない場合がある。ときには、むしろ正反対に見える場合さえある。そこに人間と、人間の営みの面白さがある。「八犬伝」と「馬琴」はその典型だ、と私は考えた」(「「八犬伝」連載を終えて」『朝日新聞』1983年11月17日夕刊)

全く、頑固と真面目と几帳面と礼儀作法を固めて作ったような曲亭馬琴が、奇想天外の物語「八犬伝」を書くのです。〈虚の世界〉と〈実の世界〉の関係やいかに。
 この小説は虚と実を織り交ぜながら、最後の鬼気迫る「虚実冥合」の四谷信濃坂を目指して突き進みます。ラストで盲目になった馬琴と、それを助けて「八犬伝」を書き継ごうとする半文盲のお路の姿は、小説中では馬琴のからかい役に徹していた北斎をして「あれは絵になる」と言わしめるのですが、この物語の巧みさは北斎の視点に立つとよくわかるかもしれません。最初に北斎を感嘆させた壮大な物語は、馬琴の講釈癖ゆえに「幽霊船」と揶揄されますが、まさにその「幽霊船」のために心血を注ぐ実生活の馬琴の姿が、最後には北斎をして説教講釈をも荘厳なる音楽と思わせるのです。虚実の関係が単なる「一致」や「正反対」とは別のものになる、虚が実に、実が虚に影響を及ぼし合うということでもあります。しかしここで、作者の残酷な言葉を一言。

「実はこのふたり〔馬琴とお路〕の苦難の対象が、〔正宗〕白鳥の言うように「愚昧な長ったらしい小説」であったという視点からでも私の「八犬伝」は書けるのである」(同上)

このような視点から書かれたとしても、山田風太郎「八犬伝」は間違いなく傑作となったことでしょう。何度でも繰り返しますが、山田風太郎という人はつくづく恐ろしい人だと思います。
 朝日文庫版解説の野口武彦は、この「八犬伝」を馬琴『八犬伝』の小説化としても評価していることを付け加えておきましょう。


魔界転生

 言わずと知れた忍法帖の傑作。山田風太郎を知らない人でも、映画などを通してこの「魔界転生」という題は知っているかもしれません。もっとも、内容は映画とはだいぶ違うのですが(いや、映画は映画で良いのですけれど。沢田研二最高でしたし。「日本人の脳味噌は生き腐れよ、アーメン」とね(いや、ちょっと違ったか)。千葉真一も格好良かったし。真田弘之はどうでもいいが)。

 小説では最初の天草四郎と荒木又衛門の復活シーンから度肝を抜いてくれました。一揆衆の首なし死体で埋め尽くされた島原の海岸で、女体の殻を破って「孵卵」する男。すなわち忍法「魔界転生」。そのように転生して現れる敵役(転生衆)を揃えるのに新書版で160ページ余りも使うという念の入れようも半端ではありません。
 前半の山場になる、やたら強い3人の老人たちが娘たちを逃がすために一人一人捨て石になる場面で、「古事記」を引き合いに出してそれが神話的逃走であることをあっさりと明かしてしまうのも、余裕と貫禄の顕れでしょう。神話そのものに逃げ切った娘たちは、柳生城の主人に助けを求めます。

 恐ろしい敵に立ち向かう、我らが主人公は柳生十兵衛。磊落で侠気にあふれた好漢にして、山田風太郎の小説に現れる唯一のヒーローであります。「これでもか、これでもか」とばかり、それぞれに工夫を凝らした場所で襲ってくる転生衆に立ち向かう彼の姿は、壮絶でもありますがその一方で無邪気さも感じさせ、じつに魅力的です。
 しかし彼の姿には、ヒーローであるが故の悲哀が漂います。というのも、登場人物が片端から死んで行くこの小説にあって、彼だけはまさに「ヒーロー」であるが故に生き延びることを義務づけられているからです。それでも敵のあるうちは良いのですが、問題は敵がすべて消え去った後。主人公であるが故に生き延びてしまった彼には、もはやなすべきことは何もないのです。

「彼を乗せた小船は、渺茫たるうねりを送る蒼い波濤を、そのままいずこともなく漕ぎ去っていった。彼自身も東の方へ。満潮のかなたへ。
 ひどく虚しい顔をして。――
 柳生十兵衛はどこへゆく」 (ノベルズp.362)

柳生十兵衛の虚しさは、そのまま物語の主人公たることの虚しさでしょう。この虚しさの後でまた物語に登場するのはほとんど不可能です。柳生十兵衛シリーズの続編が書かれるのに四半世紀を要したというのも無理からぬことと言えましょう。
 ともあれ、山田風太郎自身が忍法帖の第一位に推すというのも頷ける力作にして傑作です。


魔群の通過―天狗党叙事詩

 この小説は、大団円というものがまず見られない山田風太郎の小説の中でもひときわ暗い、さりながら注目すべき異色作です。時代的な位置は幕末から明治にあたる作品で、「明治もの」の異端児といった位置づけができましょうか。ここに描かれているのは、作者の言葉を借りれば「徹底して見当違いのエネルギーの浪費」であり、また「虚しい人間群の血と涙の浪費」です。またそれは、日本唯一の「内戦」と言うべきものでした。山田風太郎による「内戦」の定義はきっぱりとしたものです。それは、

「内戦という以上、それまでまったく隣人友人としてつき合っていた人間たちが、敵味方に分かれて、同じ国の中で、いくさといえる時間と規模で相たたかうものでなければなりませぬ」(文春文庫p.9)

と述べられます(関係ないのですが、私はユーゴ現代史を描いた映画「アンダーグラウンド」を見たときこの定義を思い出しました)。その通り、ここでは骨肉相食む戦いが描かれる、と言いたいのですがクライマックスは戦いの描写にはないのです。描かれる中心は、何と言っても一橋慶喜の優柔不断に揺さぶられる無意味な行軍ということになります。しかもその行軍の結果が、虐殺による天狗党の壊滅だという歴史的事実は動かし難く存在しています。この途方もなく人をうんざりさせる事態を山田風太郎がどのように書くのか、読者たちの興味はその点に注がれましょう。

 この作品において山田風太郎は、日頃の語り方とは異なる、作中登場人物の思い出し語りという形を採用しました。これは、視点を天狗党内部に定めつつも、時間的距離を置くことによって直接的な感情の表明を避けるための配慮でしょう。この「つじつまの合わない」歴史的事件を語るには、練達の語り手である山田風太郎にもそれだけの配慮が要求されたということです。そしてまた氏の筆は、単なる共感やルサンチマンから離れた語りを巧妙に演出しています(…しかし、この種の技量について「巧い」としか言えない我が身が口惜しゅうございます(;_;))。

 ラストに置かれた武田金次郎とお登世の時間差心中は、いつもの山田風太郎らしいパセティックな幕切れとも見られるわけですが、「この英雄的で、無惨で、愚かしくて、そして要するにつじつまの合わないドラマの終局には、ただあのうらぶれた老行商人と老女郎の死顔が二つ残っただけではないか」(文春文庫pp.302-3)という言葉は、歴史において「つじつまが合う」ということが如何なることなのかを改めて私たちに考えさせるものです。


明治断頭台

 山田風太郎自身が自作でもっとも好きなものは、実はこの『明治断頭台』ではないのでしょうか。関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』の中で、「ご自分としてはどの小説が一番いいとお考えですか」という問いに対して、山田風太郎氏は「『明治断頭台』かな」と答えています。この本は「座談的物語」とは言い条、「山田風太郎の言わなかったこと書かなかったことはまったく含まれてはいない」のですから、上記の言葉も信頼に値するものでしょう。また『GQ Japan』中のインタビューでも、「僕が一番すきなのは、『明治断頭台』という探偵小説なんですよ」と言っています。

 作者自身によるこのような評価は、取りも直さず氏の小説観を反映しています。氏は「僕は、読者にいっぱい食わすというのに快感を感じるところがあって」と言い、そのために志賀直哉の名作よりも芥川龍之介の「奉教人の死」に感心する、と言います(『コレデオシマイ』)。要するに最後でどんでん返しをやってのけるのが好きなのでしょう。その意味では、確かにこの『明治断頭台』は最も成功した作品です。

 と、前置きが長くなりましたが、この小説の舞台は明治の初め(2年−4年)、まだ討幕の混乱が残っていた時期で、東京には碌な警察組織もない状態。そこで明治政府が旧幕府の奉行所に代わって作った治安維持組織は「弾正台」、すなわち律令制時代の綱紀粛正機関であります。この小説の主人公は、その弾正台の大巡察、香月経四郎。ならびにフランスから彼を慕ってやってきた、死刑執行人サンソンの9代目エスメラルダ。それにあの川路利良までもが加わって、次々起きる怪事件を、快刀乱麻を絶つが如くに次々解決して行くのですが、香月とエスメラルダの上にはいつの間にか暗雲が忍び寄り…

 最初にこれを読んだ時、私は結末の意外さに唖然とし、そのパセティックな展開にはほとんど感動してしまいました。これはもう、読んでのお楽しみとしか言いようがありません。
 しかし、各章の冒頭に付されている「弾正台大巡察・川路利良報告書」って、実在するものなのでしょうか? ご存知の方があったらお知らせください。


柳生忍法帖

 『魔界転生』の前篇となる、柳生十兵衛の登場作(『魔界転生』中でもこの作についての若干のほのめかしがあります)。内容は、柳生十兵衛と沢庵禅師が、会津藩主加藤明成に親族を虐殺された七人の女人(もちろん美女ばかり)の敵討ちを助けて、会津七本槍と呼ばれる忍者たち・ならびにその黒幕芦名銅伯と戦うというもの。さらにお馴染み徳川千姫、南光坊天海などの豪華キャストに、最後の部分では「親父どの」柳生但馬守まで顔を出す。これまた「サービス、サービス」ですね。

 この作の特徴は、『魔界転生』に比べると全篇が明るいことでしょうか。『魔界転生』の場合には、どうにも救いがたい暗さが漂っていたわけですが、この作には不思議とそれがない。柳生十兵衛と敵役との間で戦われるものが一種の「ゲーム」であることは両作に共通なのですが。まあ、この『柳生忍法帖』の場合は、相手は一応生身の人間ですから、異常性が低いことは確かです。
 しかし、相対的に明るいからといって、この作が迫力不足などということは決してありません。私が好きなのは冒頭の千姫登場の場面。

「しずかに乗物から出てきたのは、白羽二重の小袖に綸子のうちかけをきた女人であった。年は四十以下ではないが、しかし年齢を意識させない不思議な美しさだ。ややふとりぎみの肌は、白いというより透明で、何やら幽冥の世界の女人のような気がする。ただ目だけが深沈として、じっと見すえられると、さすが七本槍衆が面をふせたほどの黒い迫力があった」 (ノベルズp.47)

この静かに登場した千姫が狂暴な七本槍衆に向かって毛ほども動じることなく、尼寺から手を引かせる場面はじつに痛快です。これもさきの『くノ一忍法帖』を読んだ読者ならば、「あの千姫ならばさもありなん」と思うことでしょう。他にも、加藤明成が偽者として、江戸城から輿に乗せられて運び出される場面などは大笑い。とにかく見所はいくらでもあります。『魔界転生』とも、また他の忍法帖ともやや異質の快作です。


妖異金瓶梅

 山田風太郎自身の「自分なりのベスト・テンに入る」という言葉が示すとおり、初期推理もの随一の傑作。中国の古典『金瓶梅』を題材にとった連作短篇です。この作を書いたそもそものきっかけは、原稿料のかわりに出版社がくれた『金瓶梅』とのこと(原稿料も後でもらったようですが)。それを読んだ氏が「これは推理小説になるじゃないか」と考えて、仕立て直したのが本作ということです。その後に出版社が『水滸伝』をやらないか、というのに応えて書かれたのが『甲賀忍法帖』ですから、この『妖異金瓶梅』は「忍法帖」スタートのきっかけとも言えます。

 内容は推理ものの連作短篇で、一篇ごとに事件が起き、その謎解きが主眼になるのですが、謎解きとはいっても、実は最初の一篇を読んだなら、あとの犯人は最初から特定できてしまいます。しかしそれでも、この作が色褪せることはありません。むしろ、探偵役の応伯爵と一緒に、犯人の魅力にあてられてしまうのが落ちではないでしょうか。
 この作はまた、風太郎推理ものとしては異例な、密度の高い描写が挿入されています。これは「変化牡丹」の一節。

「西門家の花園には、いま牡丹の花が真っ盛りであった。豪奢好みの主人が、特に好んで植えさせた花だけあって、燃えたつような濃紅色のもの、妖姫にも似た黒紫色のもの、雪のように純白のもの、緋に淡紅に黄金色、色とりどり品とりどりに、白金のような夏の日のひかりのなかに、或は荘重にしずもり、或は繚乱と微風にそよいでいる」(廣済堂文庫p.144)

西門家の庭の贅を凝らした様子がうかがわれるというものです。
 またこの作品は原典『金瓶梅』の翻案としても高い評価を受けています。特にラストの部分、潘金連と春梅の関係について、日下翠氏は「原作もこういう設定であればずっと面白かったであろう」と絶賛しています(『金瓶梅』中公新書)。


妖説太閤記

 山田風太郎はこの作品について「吉川さん、山岡さん、司馬さん、津本さんと、四大太閤記があるんだそうだが、そのほかにぜひ読んでもらいたいのが、僕の『妖説太閤記』で、それまでの秀吉像を全部ひっくり返してある」と語っています(『コレデオシマイ』)。その通り、この「妖説」は、過去に書かれた『太閤記』によって流通してきた秀吉のイメージをぶち壊し得る作品です。既製のイメージに甘んじることを肯んじないという意味で、この作品は従来の『太閤記』に対する批評といっても良いかもしれません。

 もっとも、そんな書き方をするとつまらない小説のように見えてしまいますが、そんなことは勿論ないわけで、それどころか山田風太郎による小説の第一位と言うべき力作にして傑作です。
 端的に言えば、これは「悪人秀吉伝」ということになるでしょう。しかし、これは確かにいわゆる『太閤記』をひっくり返した形になるものですが、かけらほども無理はしていないのです。資料を読んでいったら必然的にそのように行き着いたということではないでしょうか。大体、ただ単に人に好かれるだけの人間が天下を取れるはずもなく、その背後には異常なほどの上昇志向とそれを支えるだけの欲望―この「妖説」の場合は色欲―のなかるべからず、ということです。

 物語の構成的にも、前半の転回点に竹中半兵衛の死を配置し、後半の転回点に蒲生氏郷の死を配置した形は、じつにすっきりとしています。また、前半において良きお部屋様として動きを封じられた北政所(ねね)が、後半においてまさにその「良妻」たることを夫との闘争に利用する姿も、この「妖説」が単なる秀吉伝となることを妨げており、またそれに家康の天下取りの物語がからんで、作品全体に厚みが与えられています。
 ともかく、この作品を読んだ日には他の太閤記を読めなくなる、それほどの力作です。


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