年度 |
事項 |
1922年 |
1月4日、兵庫県養父郡関宮町関宮に生れる。父系母系いずれも医家。本名は誠也。 |
1927年 |
父と死別。母が叔父と再婚したため、、以後やはり医家の伯父に育てられる。 |
1936年 |
兵庫県立豊岡中学校に入学。当時の不良ぶりは数々のエッセイに詳しい。またその寮生活の経験から、「天国荘奇譚」「青春探偵団」が書かれることになる。風太郎は当時の仲間うちでの呼称。他の3人の仲間は雷太郎、雨太郎、雲太郎。 |
1937年 |
母と死別。「以後、私にとって薄闇の時代が始まる。この年齢で母がいなくなることは、魂の酸欠状態をもたらす。その打撃から脱するのに、私は十年を要した」(風眼抄) |
1940年 |
2月、「受験旬報」(「蛍雪時代」の前身)の懸賞小説に応募、「石の下」が入選。山田風太郎の筆名を使う。「受験旬報」での掲載は八度におよんだという。 |
1941年 |
3月、豊岡中学校を卒業。 |
1942年 |
3月、上京。この時は一旦帰郷する。8月、再び家出同然にして上京。9月、沖電気に入社。 |
1944年 |
召集されるが肋膜炎のため帰郷。4月、東京医学専門学校(現東京医科大学)入学。 |
1945年 |
6月、信州飯田に疎開。10月、帰郷。 |
1947年 |
「宝石」の第1回探偵小説懸賞に「達磨峠の事件」が入選。 |
1949年 |
「眼中の悪魔」「虚像淫楽」の2作により、第2回探偵作家クラブ賞を受賞。 |
1950年 |
3月、東京医科大学を卒業。 |
1953年 |
6月、佐藤啓子と結婚する。 |
1954年 |
10月、長女・佳織が生れる。 |
1957年 |
7月、長男・知樹が生れる。この年、西大泉に居を構える。 |
1958年 |
この年から忍法帖の創作に取り掛かる。 |
1963年 |
講談社「山田風太郎忍法全集」全15巻が刊行。 |
1966年 |
この年、多摩市桜ヶ丘に転居。 |
1971年 |
講談社「山田風太郎全集」全16巻刊行開始(〜72年)。 |
1973年 |
明治もの長編第1作、「警視庁草紙」を「オール読物」に連載開始。 |
1991年 |
現時点における最後の小説「柳生十兵衛死す」を毎日新聞に連載(〜92年)。 |
1997年 |
菊池寛賞を受賞 |
2001年 |
3月、日本ミステリー文学大賞受賞。 |
2001年 |
7月、肺炎のため死去。79歳。 |