山田風太郎について

 

    

1.その横顔
 たんに優れた作家というにとどまらない、ふしぎな魅力を持った人物。創作においては奔放な奇想と巧妙な構成、正確かつ自在な語り口を駆使し、ありうべき伝奇の世界を現出させる一方、エッセイや座談では飾らない率直さと人を食った韜晦をないまぜに人を誘い込む。知的でありユーモラスでありニヒルであり……と言葉を連ねることは難しくないが、もちろん大事なのは個々の形容詞ではなく、多くの特性を重ね合わせて矛盾しないということだ。それをこそ器の大きさというべきだろうか。
 作品は一般的に、初期の推理もの、中期の忍法帖、後期の明治もの、室町ものに大別される。特に際だった個性が目立つのは忍法帖以降だろう。ほかエッセイ類に加えて、『人間臨終図巻』『同日同刻』のような独特の視座に拠るテキストがある。

2.年譜
 この年譜の作成にあたっては、「山田風太郎年譜」(『コレデオシマイ』(角川春樹事務所、1996年)所収)を参考にしました。この場を借りて年譜を作られた方に御礼を申上げます。

年度

事項

1922年

1月4日、兵庫県養父郡関宮町関宮に生れる。父系母系いずれも医家。本名は誠也。

1927年

父と死別。母が叔父と再婚したため、、以後やはり医家の伯父に育てられる。

1936年

兵庫県立豊岡中学校に入学。当時の不良ぶりは数々のエッセイに詳しい。またその寮生活の経験から、「天国荘奇譚」「青春探偵団」が書かれることになる。風太郎は当時の仲間うちでの呼称。他の3人の仲間は雷太郎、雨太郎、雲太郎。

1937年

母と死別。「以後、私にとって薄闇の時代が始まる。この年齢で母がいなくなることは、魂の酸欠状態をもたらす。その打撃から脱するのに、私は十年を要した」(風眼抄)

1940年

2月、「受験旬報」(「蛍雪時代」の前身)の懸賞小説に応募、「石の下」が入選。山田風太郎の筆名を使う。「受験旬報」での掲載は八度におよんだという。

1941年

3月、豊岡中学校を卒業。

1942年

3月、上京。この時は一旦帰郷する。8月、再び家出同然にして上京。9月、沖電気に入社。

1944年

召集されるが肋膜炎のため帰郷。4月、東京医学専門学校(現東京医科大学)入学。

1945年

6月、信州飯田に疎開。10月、帰郷。

1947年

「宝石」の第1回探偵小説懸賞に「達磨峠の事件」が入選。

1949年

「眼中の悪魔」「虚像淫楽」の2作により、第2回探偵作家クラブ賞を受賞。

1950年

3月、東京医科大学を卒業。

1953年

6月、佐藤啓子と結婚する。

1954年

10月、長女・佳織が生れる。

1957年

7月、長男・知樹が生れる。この年、西大泉に居を構える。

1958年

この年から忍法帖の創作に取り掛かる。

1963年

講談社「山田風太郎忍法全集」全15巻が刊行。

1966年

この年、多摩市桜ヶ丘に転居。

1971年

講談社「山田風太郎全集」全16巻刊行開始(〜72年)。

1973年

明治もの長編第1作、「警視庁草紙」を「オール読物」に連載開始。

1991年

現時点における最後の小説「柳生十兵衛死す」を毎日新聞に連載(〜92年)。

1997年

菊池寛賞を受賞

2001年

3月、日本ミステリー文学大賞受賞。

2001年

7月、肺炎のため死去。79歳。
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