■ 技法をいくつ覚えれば十分なのだろうか?

かつて、二川滋夫氏のCoin Vanishを間近で見る機会がありました。さほどあらたまった場ではなく、雑談のついでといった何気ない雰囲気でコインを1枚消して両手をあらため、再び出現させるのを見せてくださったのですが、そのとき、手に握り込んだコインが本当に消えてしまった(ように見えた)ので非常に驚きました。

失礼を承知で「今のはどのように消したんですか?」と尋ねると、ああ、これはこうして…、と気安く教えてくださったのですが、それが何の変哲もないごく基本的なFake Passだったことで、私は再び衝撃を受けたのです。そのあとに続くWiped Cleanも特段目新しいものではありません。私は最初、二川氏が冗談を言って私をからかっているのかと疑ったほどでした。なぜなら当時の私は、見る側にその技法の知識があれば、演者がそれを行ったときに当然気がつくものと思い込んでいたからです。しかし現実に、氏の使った技法は『コインマジック事典』の最初かその次くらいに解説される、ごくありふれたものであるにもかかわらず、私にはまったくそれがわかりませんでした。

いくつものCoin Vanishをコレクションのように披露することが、マニアだけに許された蜜の味であることを私は否定しません。客の目には触れない裏側の部分に徹底的に凝ってみるのは、実際とても面白いものです。ですが正論に基づくならば、本来、同一の現象を起こす技法を複数身につける必要はありません。それよりはむしろ、たった1つでよいから自然で美しい技法を正しく身につけておくべきだということを、二川氏のCoin Vanishはあらためて私に気づかせてくれました。

しかし、頭で理解できるのとそれをこなせるのとは、まったく別のことです。「けっして真似できない二川滋夫のMisdirectionは、温和なあの表情だ」というのは、愛好家の間で好意を持って語られる冗談ですが、実際そうとでも紛らわせるしか説明のしようがないほど、氏の演技では温厚な語り口調の隙間に、まるで空気のように最上級のSleightが潜り込んできます。あれから何年もたちますが、私はいまだに1枚のコインを“あんなふうに”消すことはできません。