■ マジック番組が多すぎる

池波正太郎の文庫本を読んでいたら、次のような文章が目に留まりました。
「昔、京都の女は十二月の顔見世を見たいためにね、一月から暦を見ているわけだよ。それで一年間働いて、ようやく顔見世興行を見に行くときの、その楽しみというものは言語に絶するわけですよ。(後略)」
 現代に比べてモノや情報が圧倒的に手に入りにくい時代だったからこそ、時折供される娯楽を心の底から満喫できたという文脈です。

ここ数年、テレビ業界がマジックに非常な興味を示しているように感じます。過去これほどの頻度でマジック番組が放送されていた期間を私は知りません。しかしこれが喜ばしい現象かと言うと、必ずしもそうではないと思います。演じる側にいない人たちは、番組が増えるとマジックに興味を持つ人たちが多くなり、業界全体が活気を持って発展していくと想像するかもしれませんが、事情はそれほど単純ではありません。

愛好家はしばしば「マジック番組の多くが、不思議さよりもタネの詮索を主眼として構成されている」ことを嘆きますが、私がここで述べたいのはそれとも少し違います。もしすべての番組がタネに言及しない良質のものに変わったとしても、私はそれらをたっぷり見たいとは考えないでしょう。私は、内容にかかわらず、マジック番組の数自体があまり増えてほしくはないのです。それらがたとえ、一流のマジシャンによる最高級の演技が連夜見られるというようなものであっても、です。

誤解を恐れずに断言してしまえば「滅多に見られない」ということが、マジックへの興味を引き立てる大きな要因であると私は思っています。どんなに不思議な現象でも、似たようなものを頻繁に見せられては「ああ、またアレか」と疎んじられるのが道理。非日常を現出させるマジックというPerformanceにおいて、番組の数がきわめて多くなり露出が増えること自体が、実はその魅力をすり減らし、貶めることにつながっているのではないかと思うのです。

私が小さい頃は、テレビにマジックが登場することなど年に数回しかありませんでした。ですから年末にNHKが放送する「世界のマジックショー」を、画面にかじりついて見ていたものです。マジック番組は、それこそ1年間待ち続けた1本を大晦日に見るくらいが、私にとってはちょうどよいのかもしれません。