■ 深く考うるよりも断乎として行うにある。考うるはよい。出来るだけ考うべきであるが、考うるに際限がない、或る辺に思い切りを付けねばならぬ。

三宅雪嶺 『世の中』


三宅雪嶺は、秩父事件や足尾鉱毒事件などに深く関わった戦前のジャーナリスト。社会問題に強い関心を持ち報道を続けましたが、後年は哲学思想に活躍の場を移し、東洋哲学と西洋哲学との統合を目指して多くの哲学論を発表しました。

マジックのSecret Moveには、鏡の前でどんなに練習しても、実際に人前で演じるとなるとつい尻込みしてしまう類のものがあります。特に古典技法はそのMethodが直接的であるためそういったものが多いように私は感じますが、例えば「Homing Card(Francis Carlyle)」で客のカードをPalmingによって移動させる部分など、初心者が初めて演じるときには、何か悪事を働きでもするような恐怖感を感じるのではないでしょうか。

「ひとたび他人にマジックを見せる状況になったら一切の弁解なく、その演技は完璧でなくてはならない」という主張は正論です。が、しかし、前述したような恐怖感・後ろめたさを拭い去るにはやはり場数を踏み、自信を得ることが不可欠だとも思います。ある技法について、まだダメだこれでもダメだという具合に鬱々と考え続けると、いつまでたっても客の前で演技をすることなどできません。自分にはこなすのが無理だとあきらめてしまうよりは、上達のために、練習途中の技法を客の前で試す機会を積極的に持つ姿勢のほうが「マシ」だと思うのです。

古典として定着している技法は、それが十分通用するからこそ、時間の洗礼を受けてなお演じられ続けているのです。上に引用した一節にあるように、あらゆる可能性を「出来るだけ考うべき」ではありますが、妥当な練習量をこなした後には、腹をくくってエイヤッ! と演じてみるべきでしょう。適切に演じればきちんと通用するものを正しく学ばずに尻込みするのは、わずかな労を惜しんで千金を逃している行為にほかなりません。