■ 彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。

孫武 『孫子』

敵味方の戦力や状況をよく把握していれば、何度戦っても敗れることはない。


マジックは客との勝負ではないぞ、という過剰反応はご容赦ください。ここで引き合いに出したいのは「戦う」の一言ではなく、物事を成功に導くには客観的な彼我の状況分析が不可欠だということなのです。

事前に客のデータを多く得ておけば、演技が成功する確率は段違いに上がります。客の人数や性別、年齢などに加え、嗜好や性格までがあらかじめわかっていれば、より効果的に場を盛り上げることができるでしょう。客が、演技を真剣に注視してくれる紳士淑女であるときと、騒々しく嬌声をあげて、やたらとタネあかしをせがむ若者たちである場合とでは、演目や演出も自然と異なってくるからです。

さて、客のことをあらかじめ知っておくという気配りは、たいていの演者が自然に行っていることと思いますが、もう一方の「己を知る」ことはなかなかに困難です。冗談を連発しながら演じるのが似合う人、神秘的な表情でシリアスに演じたほうが効果的な人、自分のキャラクターを的確につかむのには時間がかかります。もちろん趣味でマジックをしているのであれば、「これは似合わない」と、早くから演技の可能性を狭めてしまうのもソンな話です。手順ごとにいろいろな自分を試してみるのも、道具の蒐集などに劣らず楽しいものですから。

引用した一節は「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず、己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」と続きます。自分の力量も把握できず客の正体も不明といった状況では、相手との距離を測るのも手探りに頼らざるをえません。そして言うまでもなく、これはマジックだけに限った話ではないでしょう。