■ 昔は孔子がたった一人だったから、孔子も幅を利かしたのだが、今は孔子が幾人も居る。

夏目漱石 『吾輩は猫である』


社会の構造が単純であった頃には、たった一人の賢者が唱える価値観を絶対の基準として掲げ、どのような場面・状況であってもその思想を当てはめて考えることができたのでしょう。しかし社会が細分化して価値観が多様に入り組んでくると、簡明な唯一の基準を持つことは次第に困難になってきます。「孔子が幾人も居る」は額面どおりの意味ではなく、世界が細かく分断され、あちらこちらに「その分野での専門家」が散見される様を、漱石が斜に構えて評していると読むべきでしょう。

近代マジックの世界で孔子になぞらえて語られる存在を探すならば、大半の人がDai Vernonの名を挙げるに違いありません。その一挙手一投足、語られる一言一句が世界中のマジシャンにどれほど影響を与えたかは、ここであらためて紙幅を割くまでもないと思います。そしてこれも孔子と同様、没後、多くの優秀な弟子たちがその遺志を継ぎました。彼らは一様に偉大なマジシャンではありましたが、Dai Vernonのように圧倒的なオーラをまとってマジック界に君臨する存在には、ついになりえなかったように思います(存命の方もいますから、完全な過去形で書ける事柄ではありませんけれど)。

私はこのことから「現在のマジック界には有用な人材がいない」という結論を導きたいわけではありません。前述したように、ある程度以上複雑になった共同体を一人の人物が総合的に統括することは、もはや不可能なのです。それがよい悪いという話ではなく、社会のシステムが時代に応じた変化を遂げ、「孔子が幾人も居る」のが常態になったのだと理解するべきなのでしょう。そして細分化された個々のマジックの分野に関して言えば、Professorに比肩しうる才能が現在も輝いていると私は確信しています。