■ 才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思いくずおれて、止ることなかれ。

本居宣長 『うひ山ぶみ』

才能が乏しいとか、学び始めたのが遅いとか、時間がないといった理由からあきらめて、学問をやめてはいけない。


演じてみたい手順の中に難易度の高い技法が含まれていると知ったとき、難しいけれど毎日少しずつでも反復練習してみようと考える人と、解説書に目を通しただけで自分にはムリだとあきらめて、ただの一度も手を動かしてみない人との間には、スタート地点においてすでに大きな隔たりがあります。

思えば私が初心者の頃は、まだ身の回りにマジックの情報が少なかったせいもあり、教えてもらった技法のほとんどを分け隔てなく練習していました。なんとか格好をつけ、その技法を手順の中で適切に使えたときの喜びは、何物にも代えがたかったものです。しかし、ある程度の量の書籍などを読んで頭でっかちになるにつれ、Classic PassをFalse Shuffleで代用し、Convincing Controlの代わりにDouble-Cutを使うといったサボリ癖(?)がついて、最近ではこの「習得する喜び」を安易に放棄してしまっている気がします。

私見ですが、アマチュアが趣味としてマジックを楽しむ上で、客の歓声にも匹敵しうる至高の快楽は「上達している実感」ではないでしょうか? たしかに社会人になった今では時間もなく、学生の時分のように四六時中デックを手にしているわけにはいきません(汗)。しかし上の一節で述べられているように、何かと理由をつけて一歩を踏み出すことをしない人は、枝葉を増やすことには長けていても、幹を太くすることからは遠ざかっているように思います。多くの苦労によって得られた成果ほど、血肉となる部分も大きかろうことは疑いありません。