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『 微熱 』
まだ窓から明るい光を差し込む外に目をやって、あひるは大きなため息をついた。 ベッドに座りこんだ姿勢で両手を前に突き出し、そのままポスンと後ろに倒れこむ。
「う〜、退屈だよ〜!」
せめて窓をあけて通りや風景を覗きこめたら。 鳥の友達を呼べたら。
禁止事項として言い渡された顔が思わず浮かび、悪態をつく。 「ふぁきあの馬鹿……」
窓をあけ、身を乗り出して落ちそうになるのはいつものこと。 鳥たちを呼び込んで部屋中に羽と鳥の糞と餌を振り散らかした。
ベッドに横たえる身で鳥たちを部屋に入れてはいけないのも、窓を覗きこめば必ず後ろからふぁきあの腕がのびてきてあひるの小さな体を支える、その手がない今、やってはいけない、と言われるのはわかる。 けれど……。 風邪をひいて部屋にたった一人、あひるの目に入るのはなにもない天井ばかり。 はめ込まれた板の数ももう何度も数えた。 視線を天から下に降ろす。 ベッドの横には小さな机。その上に数冊置かれた本は、退屈紛れにとふぁきあがあひるにあたえた物。 手を伸ばしてパラパラとめくって、また溜め息とともに本を閉じる。綺麗で緻密な挿絵の載った物語。 もらったときはすごく嬉しくて何度も繰り返し読んだが、ふぁきあが傍らで読んで聞かせてくれる物語がすぐに恋しくなった。 「風邪なんかもう治った!」 両手両足をあげて叫んでみても咽喉はまだ少々熱がある気がする。 そのままシーツを両手で掴んでごろごろとベッドの上を転がっていった。シーツが体に巻きついて白い蓑虫が出来上がる。ベッドの端まできて俯きでとまり、膝を上下に曲げてぶらぶらさせた。 「つまんない……」 首を捻って動かない扉を睨みつける。だだっぴろい部屋にあひるの体には大きなベッド、小さなサイドテーブルに水差しとコップと数冊の本と椅子。がらんとした部屋はどこか寒々しくて、こういう時は一人でなどいたくなかった。 「あそこがいいなぁ、ふぁきあの腕の中…」 シーツから頭と唇を突き出し、あひるにとって一番暖かくて落ち着く場所を思う。誰もいない部屋がひどく侘しくて切ない。 「いっしょにいたらいいのに……」 あの暖かい場所ならば、風邪だっていっぺんに治る気がする。 怪我したとき、弱ってるとき、いつも抱き上げてくれた優しい手を思う。その時あひるはすっぽりと腕の中に納まる小さなアヒルだったけれど。 ふぁきあの腕の中を思って、心が安らかな気持ちなってきたあひるは突如がばりと半身を起こし、慌てて首を左右に振った。 「ダメダメ!ふぁきあに風邪が移っちゃう!それはダメ!」 そしてまた力なくパタリとベッドに沈む。すがってはいけない事実に気落ちしてくる。 「もう、治ったよ……」 ボソリと呟いてもいらえは返らず、静まりかえった部屋に、暫くして「グー」とあひるのお腹の音が響いた。
靴音が響かないように、キシリ、キシリと階段を登る音がする。けれど淀みなく繰り返される規則正しい足音にあひるはすばやく反応した。 体重の移動や癖で、すぐにそれが誰のものであるか、あひるにはわかる。 「ふぁきあだ!」 嬉しさにうつ伏せから飛び起きて、渦巻き状に体に絡まったシーツに足をとられ、ひっくり返りながらも抜け出す。ベッドから飛び降りて扉に駆け寄ったが、くるりとターンをして慌ててベッドに戻った。つまんだシーツを両手をあげて広げ、ベッドに仰向けに潜り込む。今までおとなしく寝ていたかのように装おう。 ふわりとシーツが落ちると同時に、ためらいがちにドアがノックされ、静かに扉が開いた。 「ふぁきあ!」 「起きてたか、こら、寝ていろ。」 起きあがってベッドから抜け出そうとしたあひるを制して背中でドアを閉める。 カチャリとわずかにすりあって音を立てた食器がお盆の中で湯気をあげていた。 「食べれそうか?」 「うん!ちょうどお腹すいてきたとこ。」 えへへと笑う膝の上にふぁきあは盆を降ろして椅子を引き寄せた。 温かい野菜のスープに、蜂蜜をたっぷりつけたパン、色とりどりのフルーツ、ホットミルク。好物が並べられているお盆に目を輝かせ感嘆の声をあげる。 「すごい、ご馳走ー!」 「食べられるなら食べておけ。」 「うん!いただきますー!」 すぐに美味しそうに食べものをほうばりだしたあひるにふぁきあは目を細め、そっと安堵の息を落とす。これだけ食欲があるなら大丈夫だろう。なにしろ昨日までは高熱でうんうん唸っていたのだから。 「落ち着いて食べろよ。」 「ふぁひあふぁ?」 もごもごと口を動かしながら、こちらを見ている黒髪に首をかしげる。 「ああ、お前がすんだら下で食べる。」 ベッドの脇の椅子に腰掛けたふぁきあに口の中のものを飲み下して身を乗り出し急き切る。 「じゃあ、一緒に食べようよ!あ!」 あひるは勢いこんだままの姿勢ですぐに首をかっくりと落とした。 「でも、だめだよね……。風邪、うつるから。」 「俺は子供の頃やったからもう移らない。」 「え、そうなの?」 再び起きあがった顔にきょとんとした目が瞬きされる。ふぁきあは椅子から立ち上がった。 「お多福風邪はそういうものだ。」 「じゃあ、一緒にいてもいいんだね!」 ぱあと嬉しさに輝かせたあひるの笑顔にふぁきあの胸になにかが込み上げてくる。 右手を軽くあげて肯定の仕草を残しドアの向こう側へとふぁきあは姿を消した。軽快な音をたてて階下へと降りて行く。
去ったドアに顔を向けたまま、ふぁきあもほっぺたがあんなに膨らんだのだろうか?、とお多福顔のふぁきあを想像して、あひるは吹き出した。 高熱がでる前、急激に膨れたあひるの顔はかなりひどかった。 普段、すました顔のふぁきあにそれを当てはめると、あまりのギャップに口を閉じても笑い声があふれ出して止まらなかった。 ふぁきあが上がってくるまでにこの笑いをおさめておかないと。 笑いの原因がわかったら、きっとむくれてしまうから。 くすくすと口を覆った指の間から声が漏れる。あひるは身をよじってアヒルのクッションに顔をうずめ、肩を振るわせた。
すぐに木製のトレーに食べ物を乗せてふぁきあは現れた。目があったとたん、あひるは軽く吹き出した。 「なんだ?」 いぶかしんだふぁきあが、あまり減っていないあひるのお皿を見て、「待ってなくてよかったんだぞ。」と呟く。 「あ、ううん、ちょっと考え事してただけ。」 「どういう考え事だか。」 あわてて手を横に振りながら、ちらりと横目で見ると「えへへ」と笑った。 「なにをごまかしてる。」 ふぁきあはベッド前の椅子に座り、もってきたミルクのおかわりをあひるのカップに注ぎ込む。 「べ、べつになんでもないよ!」 ちらちらとこちらを伺う視線に「嘘をつけ」というまなざしで返すと慌てて視線をそらして食べ物を掻き込む。 案の定むせて、ふぁきあはまだ口をつけてない自分のグラスをあひるの手に握らせた。 「あ、ありがと。」 「時間はあるんだから、落ち着いて食えよ。」 「う、うん。」 しずしずと食べることに集中して、暫く食器の音だけが部屋を満たす。美味しそうに食べるあひるにふぁきあは口の端を上げ、自身も口に物を運んだ。 ふと食事の手を止めて、あひるは窓の外に目をやる。まだ明るいが、日は少しずつ傾いてきていた。 「ねえ、ふぁきあ、食べたら外出てもいい?」 ふぁきあの顔が反射的に膝上のお盆からあひるの顔へと上がる。口の中のものを飲み込んだその顔には渋面が乗っていた。 「なに言ってる、まだ熱が下がってないだろう。」 「もう治ったよ。」 「昨日まで寝込んでたんだぞ。今日一日ぐらいは安静にしてろ。」 「じゃあ、窓をあけて外を見るのはいい?」 本当は今日ぐらいずっと横になっていた方がいいのだが、落ち着いて一所に留まっていない性質のあひるを考えるとベッドに縛り付けたままなのも可哀想だ。 「鳥を呼び込まないなら少しくらいいいぞ。」 あっさり出た許可にあひるは体を弾ませるような勢いで歓喜の声をあげる。 あまりの喜びようにそんなに押さえつけていたかと思案して、ポロリと口からついて出た。 「そんなに嬉しいなら明日、調子がよかったら外へ連れていってやる。」 「本当?」 「遠出は無理だけどな。」 大きな目をさらに大きく見開いて嬉しそうに笑ったあひるの顔に、ふぁきあは頬が熱くなるのを感じながら、首を縦に振った。
ふぁきあは食べ終わったトレーをいったんテーブルに置いて窓をあけてから、あひるにまだベッドから出ないようにと言い含め、空になったトレーを持って階下へと降りていった。 あひるはまだ皿に残ってる食べ物をきれいに平らげるべく手を動かし続けた。開け放した窓から気持ちのいい緩やかな風が入ってきて、あひるの頬をくすぐる。 食べ終えた食器をサイドテーブルに置いて、うきうきとふぁきあが来るのを待っていたあひるは再び上がってきたふぁきあの手に握られている黒い物体を見て、瞬時に顔が固まった。 ふぁきあが握っていたものは薬のビンだった。そのビンを見ただけであひるの口に苦味が思い出されて顔をしかめ、唾を飲み込んだ。ふるふると懸命に首を振って牽制を試みる。 「も、もう治ったから大丈夫だよ!それ飲まなくても!!」 「これ、きいただろうが。今日までは飲んどけ。明日、出かけたいんだろう?」 「う〜、それはそうだけど……。」 効くのはわかっていても、進んで飲めるか、というのはまた別の話だ。 ふぁきあは今度はベッドに腰掛け、あひるの横に並ぶと蓋をあけてスプーンにどろりとした濃い茶色の液体を流し込む。 「自分でやるよ。」 「お前、量をごまかすじゃないか。」 「うっ、そ、そんなことないよ。」 目の前にスプーンを差し出されると、香草のつんとした匂いが鼻につく。口をへの字にしてわずかに後ずされば、その分ふぁきあがにじり寄ってくる。 「口をあけろ。」 「んっ」 決死の覚悟で思い切り強く目を瞑ってスプーンを咥える。ふぁきあが掬い上げるようにしてスプーンを引き上げ、あひるの咽喉に薬を流し込む。 口を引き締めてもごもごと動かし飲み下した。独特の苦味と甘味が咽喉にからまる。 「にがーい!」 あひるが顔をこれ以上ないくらい顰めると、ふぁきあは笑いをかみ締めた。 「ほら、もう一口。」 2匙目をスプーンに注いで、さらに及び腰のあひるの首を左手で押さえて逃げ道を無くす。 「ふぁきあ、楽しそう……。」 軽く睨んで、諦めたように口をあける。すっとスプーンが口に入ってきた。 「きれいに舐めとけ。」 そう言ってあひるに握らせる。 「うー、美味しいもの食べたのに味、忘れそうだよ〜。」 あひるは時折苦味に閉口して舌をだしながら、スプーンをしゃぶる。 ふぁきあは薬ビンの蓋を閉めると、スプーンを引き取って、その手に肩がけを渡した。 嬉しそうにあひるがそれを羽織る。かなり大きくて、腰まですっぽりと包み隠れた。 ふぁきあがベッドの反対側に回り込んで、足元に室内履きを置いた。立ち上がろうとするあひるの手を取る。ベッドから降りてあひるが立ち上がると、肩がけが膝のあたりまではらはらと垂れ下がった。 腕に引っ掛けて適当に纏っただけという具合の肩がけをふぁきあは引きとってととのえ、しっかりと小さな肩を包み込む。首のところでクロスさせた布をあひるの手が押さえた。 多少てるてる坊主みたいだが、この際それは置いておく。 「あったかーい。ありがと、ふぁきあ。」 羽織った肩がけをくるりと翻してあひるは窓へ駆け寄った。
情景を楽しむにはいい時間だった。 光の具合であたりは黄色に満ちていた。窓も、通りも壁も屋根も人もあらゆる物が黄色のオブラートに包まれる。 光は白く、空は不思議な色彩を放つ。 「きれいだね……。」 「ああ、きれいだ。」 あひるは窓から乗り出し屋根に寄り掛かるように折った腕を顎下に添え、移りゆく黄色を水色の瞳に写した。 その後ろからふぁきあも窓に手をやり、片方の腕をあひるの腰にまわして支える。 ひなたの匂いの風が二人の髪をやさしくなぜて通り過ぎる。 「金冠町が物語りに支配されていた頃はこんな夕焼けは見ることができなかったな。」 ふぁきあがぽつりともらす。 それは全て腕の中の小さな存在が成しえたこと。 「二人でがんばったもんね!」 背中越しにあひるの声が弾んでいるのがわかる。
そうだろうか、とふぁきあは思う。今のこの状況に至るまでには確かに這いずり回った。だが、自分に比べてあひるは無くしたものが多すぎる。物語を終わらせるために差し出したものが違いすぎるのだ。
「あたし、こうやってふぁきあと一緒に見ることができて、すごく嬉しいよ。よかったって、思う。」 顔は見ずともあひるがどんな顔をしているのかふぁきあにはわかる。 「そうか。」 壁から反射してる黄色があひるをうっすらと染め上げている。 ふぁきあはやわらかなあひるの頭に、ぽんと手を乗せ、鳥のときのように優しく撫ぜた。 あひるはきっと無くしたなどとは微塵も感じていないのだから。 ふぁきあはあひるがそのまま飛んで消えていってしまいそうで、まわした腕を抱えなおした。
あひるに触れている腕と柔らかな髪がふぁきあの顎にかかって、おごそかになにかがふぁきあの胸に這い上がってくる。 締め付けられるようなその気持ちに、この照らしだす光がすべてを、あひるも自分もなにもかもを金に染め上げ、ひとつに溶かしてわからなくなってしまえばいい、とふぁきあは思った。 あひるはやっと昼間一人だった頼りなげな気持ちが、すとん、と納まるところへ落ち着いて安定していくのを感じていた。腰はしっかりと掴まれ、あひるの頭の後ろにふぁきあの胸があたる。後ろから抱きすくめられているような体勢。すぐそばから降ってくるふぁきあの落ち着いた声があひるの耳に心地よく響く。 やっぱりふぁきあの傍は安心する、そうあひるは思った。 眩しそうに暫し黄色から桃色に染まってゆく町並みを二人で眺めていた。 黄色が陰りを見せた頃。 「もう、いいか?」とふぁきあが促す。 もう少しこうしていたかったが、風にあたりっぱなしではあひるの体によくない。 あひるは黄色を吸いこんで、短く息を吐く。沈んだ気分はすっかり消えてなくなっていた。 「うん!」 顎を上げ、後ろに立つふぁきあを満面の笑みで見上げた。 すっかり上機嫌になったあひるはそのまま小走りに外へ飛び出しそうな勢いで、窓を閉めたふぁきあが慌てて手を掴んでベッドへ入るようにと顎をしゃくる。 「せっかく二人でいるんだから、踊ろう?ふぁきあ。」 首を傾げて手を差しのべるあひるにふぁきあはぐっとつまる。大変可愛らしいが、その誘いに乗るわけにもいかない。 ふぁきあは苦笑して「明日な。」と言うと、つかんでいた手をあひるの腰にまわし、差し出した方の手を取ると、ステップを踏んでくるりとまわりだした。あひるは数回回転させられたままベッドまでリードされ、気づいたときにはベッドの端に座らされてしまっていた。 「あっ。」 ぱちくりと瞬いたあひるにすかさずふぁきあがあひるの靴をさらう。あひるが声をあげたときには、もう靴は手の届かないところへ。ふぁきあの腕に手をすがらせ靴を追ったが間に合うはずもなかった。 「もう熱下がったよ〜」 唇を尖らせて袖をひっぱるあひるの肩をふぁきあは指先で軽く、トンと押す。 観念してベッドの中央へと後じさるように移動したあひるに、どら、とふぁきあの手が追ってきた。 片手を付いてベッドに腰掛け、ふぁきあは手の甲をあひるの額にぴたりとあてる。 ふぁきあの重みでベッドがギシリと鳴った。 「今朝よりはだいぶ下がってるいるようには思うが……。」 いぶかしげに思案した顔はわずかに眉間に皺を寄せ、あひるの頬を押さえ込み、顔を近づける。 突如近くなったふぁきあの顔にあひるの鼓動が痛むほど跳ね上がった。 体を屈め、こつんと額をあわせる。あひるの頬がみるみる上気していく。 目を瞑っていたふぁきあが眉根を寄せて切れ長の目を開けた。 「……まだ少し熱があるな。頬の腫れはだいぶ引いたが……痛くはないのか?」 「あ、あの、ふぁ、ふぁきあ!」 頬を優しく包み、腫れているであろうラインに手を滑らす。 「なんだ?」 ふぁきあは額を離すと、そのままあひるの顔を覗きこんだ。 息がかかるほど近い位置に真っ赤になったあひるはぎゅっと目を瞑る。 「どうした、つらいのか?」 瞳を開けると、こちらを心配している緑の瞳が揺らいでいた。 髪をかきあげ、額に触れる。首から髪に指を差し込まれて頭を支えられた。 撫でられる頬はひどく心地よくて。 「大丈夫……。」 自然に顔が緩む。 囁くように言の葉にのせると、無性に触れたくなってあひるはそっとふぁきあの頬に手をのばした。 何かを訴えるように見上げてくる澄んだ空色の瞳が揺れて、小さな指先がふぁきあの頬骨をなぞる。 魅入られるようにその青に溺れれば、気がついたときにはふぁきあは肘から撫で上げて柔らかなあひるの手に己の手を重ね合わせていた。 触れるたびに心に温かいものが満ちていき、互いの顔には微笑が浮かんでいた。吸い込まれるように両手をのばし睦み合う。 髪を指で絡め、眉を親指でなぞり、頭の形を手で確かる。 互いの触れている体温で温かくなった空気が二人の体中を包み込んだ。 同じ体温で頬を摺り寄せあい、鼻梁をこすり合わせ、柔らかな髪に瞼を埋め、布で覆われてない部分を慈しむ。 時が止まり、髪の触れ合う距離で、ふぁきあとあひるは手や頬に触れたまま穏やかに見詰め合っていた。
あひるのそばで一体いつまでこうしていられるのかと、ふぁきあはおぼろげに思う。 全てはこの時一瞬のことと直感的にわかっているから、いっそ抱きつぶしてしまいたいという熱い衝動が満たされた心にざわざわと這い上がってくる。 手をやってる頬と唇がひどく柔らかく、温かく、心地いい、そう熱を帯びて思ったとたん、ふぁきあは己の今の状態に覚めるように我に返って後ろに跳び退った。 腕が窓にあたり、割れはしなかったが派手な音をたてる。 「ふぁ、ふぁきあ、大丈夫?」 「あ、ああ。」 いきなり離れたふぁきあにあひるは驚いて、あいてしまった空間に虚しく手をさ迷わせていた。突然消えたぬくもりはひどい喪失感を伴う。 「どうしたの?」 そばへ寄ろうとした動きはふぁきあの突き出された腕によって止められた。 その手が、近寄るな、来るな、と告げている。 ふぁきあはこうやって突然あひるを突き放す。ふぁきあの何がそうさせているのか、あひるには理解できない。なにがいけないのか何度も考えてみてもわからなかった。 わかるのは、ふぁきあが何かを懸命に抑え込んでいることと、そしてそれが自分のためであることを薄々感じているだけだ。 抑え込んだものをこちらには向けず、もらさないように壁を作っているふぁきあにひどく悲しくなって、あひるの手はゆっくりと空を切って落ちていった。
俺は今、なにをしていた?
ひどく心臓が早鐘を打つ。動揺を隠し切れずに片手で顔を覆った。自分のしたことが脳裏に繰り返される。 あひるの頬を捉えて、至近距離で見詰め合い、 あれではまるで……
我に返らなければ、そのままあひるの体中に唇を寄せていたに違いない。このまま同じ部屋にいたら無意識に自分の手はあひるを求めてしまう。堰を切って流れ出した感情を止められる自信などまったくなかった。 耳まで朱に染めてふぁきあは一直線に扉に向かおうとした。 「いっちゃうの?」 「お前ももう、休め。」 「風邪、移らないなら、ふぁきあも一緒に寝ようよ。」 離れがたいあひるから発せられた言葉にふぁきあは足を止め、目を丸くする。 「鳥のときみたいに傍においてくれるだけでいいから。そういうのはダメ?」 「な……そんなことできるわけないだろう!おまえ、意味わかってるのか!?」 顔を真っ赤にしたふぁきあは、顔半分を手で覆ったまま、なにかを抑えるようにまくし立てる。 鳥のときでさえベッドを譲ると一悶着おこしたくらいだったのだから、当然の反応だった。 その時は結局、あひるの寝床を別に用意して、しぶしぶだがふぁきあが折れた。それでも同室なのはちょっと、と最後まで抵抗していたから、人の姿をしている今はふぁきあにとってとんでもない話だった。 しゅんと肩を落とすとあひるは消え入りそうな声で言った。 「でも……、一人は嫌だよ。あたしと一緒に寝るの、嫌なのは知ってるけど……。」 「違う!そういう意味じゃない。」 あひるが最後まで言いきる前に言葉をさえぎって否定した。 「嫌なわけが……!……ない。」 思わず口をついて出た本音に、慌てて手で抑える。ゆるゆると瞳を上げたあひるは当然の疑問を口にする。 「それじゃあ、どうして?」 「それは……。」 ふぁきあは言いよどむ。その言葉は口にしてはいけない、と頭の中で警鐘が鳴る。 あひるが、鳥の姿であろうが、人の姿であろうがふぁきあにとっては同じことだ。 ただ、恋人同士でもない、将来を誓い合った仲でもなんでもない自分とあひるが、それに近い行為をすることが、まだ意味をよく飲み込めていないであろうあひるに付けこむようですごく嫌だった。 そういう行為はふぁきあがもっとも唾棄する事柄で。 良くも悪くもふぁきあは公正で潔い。 思いが強すぎて、己の感情であひるを押しつぶしてしまいそうで気持ちを吐露することもできない。伝えたが最後、それがあひるを押し込めて縛り付けてしまいそうで、ふぁきあは自分に強いた戒めを頑なに守った。心を告げることは、なにか自分とあひるの中に確かにある大切な絆のようなものを壊してしまいそうだったから。 この曖昧な関係が崩れてしまうのがふぁきあはひどく恐ろしかった。 それと同時にふぁきあは思っている。 あひるは自由であるべきだ、と。羽を伸ばし自在に駆け回り、全ての祝福をその身に受ける権利があるのだと。 何人たりともその羽に杭を打つようなことをしてはいけない。 例えふぁきあが身の内にどんな感情を持っていたとしても。 不幸なのはふぁきあが、あひるの気持ちが自分の方に向くなど、露ほども思わなかったことだ。 「ごめんね、ふぁきあ。」 「?」 「ふぁきあを困らせるつもりはなかったの。」 ごめんね、と消え入るように小さく呟くあひるにふぁきあは冷水をかけられた気分になる。そんな風にあひるを追い込むつもりなどなかった。 「わかった……、そばにいる。」 こんな顔のあひるを一人残して部屋を去れるわけがない。あひるが心細いのは充分承知している。 「だからそんな顔するな。」 ふぁきあは踵を返して、ゆっくりとあひるに近づき、静かにベッドに腰掛けた。 「それに、俺は別に困ってない。おまえの好きにしていいんだ。」 「ほんとに?」 水色の目が上目使いに覗き込む。 「無茶をしなければな。」 あひるが望むものを全て与えたい、と思うのは紛れもないふぁきあの本心だ。 ふぁきあの目がやさしさを湛えてあひるに注がれ、あひるの耳あたりに手をすべらせた。あひるの一番好きなふぁきあの顔。あひるは少しだけ頬を染めて笑った。 ずっとこのゆれる緑と一緒にいたい、そう望むのはいけないことなのだろうか。 のばされたふぁきあの手に手を添た。ふぁきあの鼓動が少し早くなったが、あひるが気づくはずもなく。ふぁきあの片方の肩に手を伸ばし、そして思い切り体重をのせた。 そのまま空間が傾いでふぁきあはベッドに押し倒された。 あひるは覆い被さって鳥のときのようにふぁきあの右胸に擦り寄り、安堵の息をもらす。 「はー、やっぱり……、ふぁきあの腕の中は落ち着く。」 「………………お前な…………」 赤くなったふぁきあが薔薇色の頭をねめつけるが、こんな安心しきった顔をされては自分からどくようにと告げる言葉は口から出る前に霧散して消えてしまった。 実際、高熱のせいであひるは落ち着いて眠ることなどできなかったのだから。 「ちょっとの間だけでいいの、お願い。」 「……わかった、……今だけだぞ。」 あひるにあっさり留めを刺され、ふぁきあの心中は嵐が渦巻いていたが、あひるを思う気持ちの方が遥に強くて、あひるが望むなら、と自分の感情を深く押さえつけた。 観念して息を吐くと、ふぁきあは靴を脱いでベッドに横になり、手をのばし、あひるの肩に触れた。そこからゆっくりと体に腕をすべらせてやさしく包み込む。 愛しい少女が手の中にあるのは正直嬉しいことだった。 ふぁきあに包まれてあひるは気持ちよさそうに瞼を閉じる。 「お前が眠るまでこうしているから……おやすみ」 頭を屈めて額にキスをおとしたふぁきあは、小さなあひるの体を抱きしめたまま直に感じるあひるの温かい体温と体の重みにひどく満たされた幸せな気持ちになった。 体中に広がる温かさに朦朧としてゆく意識が、きっと寝ていないせいで微熱でもあるのだと思考して。 そしてふぁきあは、ついうっかりとそのまま眠りに落ちてしまったのだ。
ふぁきあは昨日まで高熱でうなっているあひるの傍につきっきりで、時たま目をあけたあひるが、不安で泣きそうに手をのばすので、ずっとその手を握ったまま、目を離すことなどできなかった。あひるが落ち着くまで、と自身の抱える不安がないまぜになって、結局ふぁきあは今朝方あひるが目覚めるまで一睡もできなかった。 目覚めてだいぶ元気になったあひるに禁止事項を言い渡して、今日はそれまで保留になっていた用事を全てすませて帰ってきたのだ。いわゆる看病疲れだった。
すぐに聞こえてきた寝息にあひるは顔をあげる。 あんなに一緒に寝るのを抵抗してたのに、とくすくす笑った。 こんな間近でふぁきあの寝顔を見れる機会などめったにない。 やすらかに眠るふぁきあをしばらくまじまじと眺め、首をのばして頬の下に唇を寄せた。 「おやすみ、ふぁきあ。」 再び腕の中にあひるは落ち着き瞼を閉じる。 ふぁきあの規則正しい心音を聞きながら。
<END>
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物語後設定。あひるは紆余曲折あって人にも鳥にもなれる。みゅうととるうはいない。 寮生活だが、しょっちゅうふぁきあの家に入り浸り。カロンさん了解済み。 まあ、パラレルってことで。
そこはかとなくマノンの寝室のパドドゥ臭くなりました。 ベッドのある部屋でいちゃついているからか……。
「ふぁきあの腕の中は落ち着く〜」という話かきたいなあ、とか思っていたら、ある日ボツにしてた、おでこゴチーンで熱はかるイラストがでてきて、それと頭の中が結びついたら、こげな話が降りてきました。 なんだか手が滑ってどんどん話が延びる延びる延びる! 回転しながらベッドに座らせるのとか、二人で外を眺めるのとか、薬を飲ませるシーンなど、書き始めはなかったんですが……
薬を飲ませるところが一番かいてて楽しかったです。 そして延びるたびに上がっていく糖度……。
しかしふぁきあかなり生殺し状態で可哀想かもしれん……(笑) 結局いっしょに寝てしまったので、次の日ふぁきあは自己嫌悪に陥ってることでしょう。合掌。
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