廣済堂文庫『長脇差枯野抄』に収録。
江戸時代の「盗賊改め」中山勘解由(かげゆ)の半生を描いた物語です。当時から「鬼勘解由」と言われた恐るべき人物が、いかなる考えを持って人を斬りまくったのか。風太郎的人間観が史実とからんで、奇妙な伝記風の作品に仕上がっています。
とにかく人を斬りまくる話なのですから殺伐とするのが自然なのですが、そこは山田風太郎、やはりどことなく可笑しみが漂う語り口です。例えば斬った相手の幽霊を見るという息子に対する勘解由のセリフ。「幽霊も一人だとこわいものじゃろうが、これが何十人も何百人もぞろぞろと現れて来ると、かえって可笑しい。おまえも早うそうなることじゃ」…こういうセリフを「滋味にみちた笑顔」で言わせるようなずらし方が上手いのです。
この作品は、
出版芸術社『怪談部屋』に収録。
出版芸術社『怪談部屋』に収録。
集英社文庫『秀吉妖話帖』に収録。
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
菊池秀行などの風太郎ファンから絶大な支持を得ている、忍法帖中の傑作の一つです。山田風太郎自身も、「あれは忍法が、わりあいいいんですよ」(菊池秀行との対談:『風来酔夢談』所収)と認めている作品でもあります。
この作品も典型的な忍法帖であって、主な内容は忍者たちの忍法比べであります。そこでさしあたっての問題は、どうやってその試合を始動させるかということなのですが、山田風太郎は設定として尾張宗春と八代将軍吉宗の対立を導入しました。前者が後者をからかい、後者が前者を制圧しようとする、その運動のなかに忍法比べを配置したわけです。なるほど、これなら物語もスムーズに流れようというもの。残る興味は忍法へ。
その忍法も、作者自ら肯定的な評価を下すだけあって、秀逸なものが揃っています。私が好き、というか面白いと思ったのは人間を生き腐れにする「忍法埋葬虫」。ほかにも実にファンタスティックな「忍法夢若衆」や、江戸川乱歩の面影を彷彿とさせる「忍法鏡地獄」など、興は尽きません。さらに、本筋とは必ずしも関係のない天一坊事件をからめる手際などは、いかにも山田風太郎らしさを感じさせるものです。まとまりのいい一作でしょう。
この作品は
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』、双葉社『極悪人』に収録(『極悪人』には原題の「天下分目忍法咄」で収録)。
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
講談社大衆文学館『忍法甲州路』に収録。
文春文庫『忍法関ヶ原』、講談社ノベルズ『剣鬼喇嘛仏』に収録。
集英社文庫『秀吉妖話帖』に収録。
角川文庫から出版。
講談社ノベルズ『くノ一紅騎兵』に収録。
文春文庫『忍法関ヶ原』、講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
文春文庫『忍法関ヶ原』、講談社ノベルズ『剣鬼喇嘛仏』に収録。
集英社文庫『秀吉妖話帖』に収録。
講談社ノベルズ『くノ一紅騎兵』に収録。
文春文庫『忍法関ヶ原』に収録。
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
元禄年間以来皆さんよくご存じの忠臣蔵。しかし、そこに忍者がからんでいたとすればどうなるか、というのがこの作品のとりあえずの楽しみです。米沢上杉藩に能登組の忍者がいたというのはこの作品を読んで初めて知りました、というか本当にいたんですか?(^^; それはともかく、この作で面白いのは、相争う二勢力が、敵対する二つの藩(たとえば赤穂VS上杉)というのではなく、上杉藩内の二者だということです。赤穂の浪人を葬って敵討ちを止めようとする藩主綱憲側の10人の忍者たちに対して、その暗殺を止めつつ、浪人どもを色餓鬼に変ずることで敵討ちを阻まんとする家老千坂兵部一派の6人のくノ一たち。普通なら、彼らの忍法比べで物語は進んでいくのですが……。
この作品ではしかし、部外者に近い伊賀の忍者、無明綱太郎が登場します。忠義の名の下に彼を捨てた女ゆえに、「拙者、忠義と女は大きらいでござる」とうそぶくようになってしまった綱太郎。この男が兵部の依頼により6人のくノ一を見張ることになるのですが、この男がいなかったとしても、千坂兵部による企みを隠した物語として話は進められ得るのです。敢えて山田風太郎がこの忍者を書いたということ、そしておそらく、登場人物に感情移入することの少ない作者としては珍しく、山田風太郎はけっこうこの忍者を好きなのではないかと思われるのが(忠義から「列外」に置かれた忍者というのは風太郎好みに見えるのです)、この作品をややこしくしています。忍法争いの序盤で綱太郎がつぶやく「
講談社大衆文学館『忍者枯葉塔九郎』に収録。
曲亭馬琴著すところの「南総里見八犬伝」で知られる八犬士。山田風太郎の読者であれば、「八犬伝」でなじみのできた方も多いはずです。その八犬士の子孫たちが、本多佐渡守による里見家取り潰しの陰謀を妨げるため、いや何よりも崇敬する村雨さまのため、伊賀忍法をあやつるくノ一たちと死闘を演ずることに。しかし八犬士の子孫らは、いずれも甲賀での忍法修行を半端で飛び出してきた者。果たしてプロの忍者を相手に勝利することができるのか。
大した能力を持つわけではない者たちが、一人の女人のために戦うという図式は風太郎好みのものです。忍法帖ではこの作品のほか、『風来忍法帖』において典型的に見ることができます(『風来…』よりは本作品の方がみな幾らかは有能ですが)。しかし、『風来忍法帖』と同様なのはその点だけではありません。彼らは忍法として飛び抜けたものを持っていない分、その他の部分でキャラクターが強くなっている、要するに「立つ」ような書き方をされているのです。普通なら忍者たちは、容貌や性格についてもある程度の記述は与えられますが、より重要なのは彼らの術になります。そして術をもって戦うことに関し、彼らは疑うことがありません。この点で多くの忍法帖は実に潔い書き方をされています。人物の性格を書き込もうというのはだれもが考えそうなことなのですが、山田風太郎は敢えてそこを切り捨て、術において忍者が存在するという書き方にしたのですから。人物への感情移入などまったく無視した書きっぷりは見事であり、それだけ見ても多くの忍法帖(特に長編)は単なる通俗と次元を異にしています。
しかし本作『忍法八犬伝』は術よりもキャラクターに重きを置くのですから、読む方も多少勝手が違うのです。個人的に好きなキャラクターは、最後の最後に「
講談社ノベルズ『剣鬼喇嘛仏』に収録。
講談社ノベルズから出版。
講談社大衆文学館『奇想ミステリ集』に収録。