2001年10月
- 人は人に流される(2001/10/25)
- 価値なき勲章(2001/10/28)

BSE−、いや、『狂牛病』と言った方がなじみ深いだろう。今までは海
の向こうのデキゴトでしかなかったモノが、千葉の牧場で1頭が狂牛病で
あると判明したばかりか、焼却されたはずのその牛が肉骨粉に加工されて
出荷されていたのが明らかになるに及んで、この国でも上を下への大騒ぎ
になっている。
今回は、笑いゴトではないにもかかわらずどうしても滑稽に思えてなら
ない、日本での狂牛病騒動について書いてみたい。
当然と言えば当然だが、千葉の牧場の件が報道されてから、あちこちで
牛肉の料理への使用が自粛された。学校給食のメニューからは牛肉を使っ
た料理が消え、小売店では全く牛肉が売れなくなり、焼肉屋も売り上げが
激減し、大きなダメージを受けた。
確かに、その気持ちはとてもよく解る。特に、一旦「焼却された」と発
表されたはずの感染牛がその後、感染ルートの主たるモノである肉骨粉に
加工されていたことが判明(結局またもやウソを我々は聞かされた!)し
たのに加え、武部農水相が焼肉をガツガツ食らうパフォーマンスまでして
みせて安全性を強調したそのまた直後に、新たに2頭の感染の疑いが明る
みに出たのだから(知らされなかった大臣もいい面の皮だが)。「ちょっ
と怖くて食べる気になれない」というのは、至極まっとうな感覚と言えよ
う。
だが、それが極端にすぎないかと思う。一瞬にして「牛肉=狂牛病」と
いうステレオタイプに洗脳されたかのように、誰も彼もが口を開けば「牛
肉こわい」の大合唱。あげく、感染が確認された牛が乳牛だったばっかり
に、一部では牛乳までも給食から引き揚げた学校もあった。
さらに、北海道で、某大手コンビニからレトルトカレー7万食の注文を
無期延期(事実上のキャンセルだ)されてしまった食品加工会社の社長が
自殺したというニュースを聞くに及んで、俺はこの国が持つ「国民性」に
暗澹たる気持ちになった。
真実を国民に知らせるコトのない政府の姿勢を見ていれば、確かに全て
を疑う気持ちにならざるを得ないのも解るし、危険なモノには触れずに生
活したいのはまた当たり前だ。それに、信じてだまされるよりは、疑って
かかっていればだまされるコトもない。ある意味で、確かに安全は保証さ
れると言えるだろう。
が、今回はどうだろう。「牛肉=狂牛病」を通り越して「牛=狂牛病」
でもあるかのような、半ばヒステリックな振る舞いは、俺にしてみれば滑
稽にして哀れとも言えるモノにしか映らない。
日本の牛肉が信用できないというのであれば、どこの牛肉なら安全か、
調べてみようとは思わないのだろうか。選択肢はいくらでもあるのに、同
じ「牛肉」というくくりで拙速な判断を下してしまうのは、あまりに危険
ではないだろうか。
同じようなコトは「遺伝子組み換え農作物」に対しても言えるのではな
いだろうか。そのコトバの響きがもつ「反自然的」なモノに対するアレル
ギーのようなモノを感じるのだ。
今後、地球全体での爆発的人口増加に伴い、食料供給の不安はいずれ訪
れるはずだ。その時、安定した食料供給にひょっとしたら遺伝子組み換え
作物が寄与するかもしれない。病虫害に対する強い耐性や繁殖力の強化、
あるいは味や生産性が向上し、現在自然界にあるモノを上回る農作物がで
きてくるかもしれない。現在、遺伝子組み換え作物に対してヒステリック
に反対している人々は、そうなった際にも相変わらず反対を唱えるのだろ
うか。
もちろん、人体に対する安全性をはっきりと確認したいモノではある。
が、妙な固定観念に惑わされ踊らされ、いくつもある選択の幅を自分で狭
めるのは、逆に人間の生活にとって危うい行動であると、俺は考える。
俺は、今回の一連の狂牛病騒動の中でも、何ひとつ気にするコトなく牛
肉を食している。仮に肉から狂牛病に感染し発症したとしても、潜伏期間
を考えたらどうせ死ぬのは5年や10年先の話(笑)。どうせなら、見えな
い恐怖にビクビク怯えながら80年生きるよりも、好きなコトをして10年の
生命の方がいい。そして、その10年の中でいかに有意義に生きるかを考え
たい。

米メジャーリーグ・シアトルマリナーズへ入団し、初年度にして首位打
者・盗塁王の2冠に輝いたイチローに、政府が国民栄誉賞の授与を検討し
たという。幸い、イチロー本人が「まだ自分は若い」コトを理由に固辞し
たコトもあり受賞には至らなかったが、このニュースを聞いて俺は「また
か…」という苦々しい思いを抱いた。
国民栄誉賞とは、
「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業
績があった者に対し、その栄誉を称える」
コトが目的だという。ともなれば、その受賞対象は厳選されねばならな
いはずなのだが、どうもここのところ乱発されているように思えてならな
い。事実、1977年8月の創設から、1989年までの13年間で8人だった受
賞者が、'92年以降去年までの9年間で7人と、どうも増加傾向に思える。
特にその'92年以降の受賞者の顔ぶれを見ると、うち何人かは全く知らな
い人間だ。名前も知らないナツメロナンバーの作曲者に国民栄誉賞を贈っ
ても、こっちとしては全く感情移入などできない。そんな賞に価値がある
のかどうかすら疑わしく思えてしまう。
特に、今回のイチローへの賞授与というモノに対しては、不景気にあえ
ぐ日本国民に対しての「国威発揚」の小道具として「国民栄誉賞」という
制度が利用されているだけのように思えてならない。もしくは、テロ対策
の不透明さや狂牛病対策の後手後手ぶりで有権者からその手腕に疑念を持
たれ始めている政府与党が人気取りのために、文字通りの人気者であるイ
チローに賞を贈るコトで、イチローの人気にあやかろうとしたのではない
かとも勘ぐりたくなる。
先述の通り、イチロー本人が授与を固辞したため、政府与党のもくろみ
(?)はハズれたが、それでよかったと思っている人間は多数いるのでは
ないかと俺は思っている。
イチローは確かにスゴい才能の持ち主だし、ある意味では何らかの賞を
贈る必要もあるのかもしれない。が、それは決して「国民栄誉賞」などと
いう、本当に価値があるのかどうかも解らないようなシロモノではないの
ではないか。そんなチンケな賞で縛られるほど、イチローの価値は低くな
いはずだ。
そもそも俺に言わせれば、「国民栄誉賞」と銘打つ賞であるなら、その
授与基準からして違うのではないだろうか。俺としては、国民栄誉賞は
「その活躍に対して、日本国民が『ホントにスゴい!同じ日本人と
して嬉しいよ』と純粋に感銘し、自分が日本人であるコトに誇り
を持たせてくれる存在」
という人間に対してこそ贈呈されるべきだと思う。この基準で国民栄誉
賞が贈られるのであれば、イチローや高橋尚子はたしかに受賞対象だし、
彼らが受賞するコトに対して何の文句もない。それに、年寄り連中の間で
しか有名ではないようなワケの判らないナツメロ作曲家などにムダに賞を
授与するコトもなくなり、賞の価値も高まるのではないかと思う。
暴論であるかもしれないが、大体からして、千代の富士(現九重親方)
が国民栄誉賞を取れるなら、
・原田哲也('93年WGP250ccチャンピオン)
・坂田和人('94年・'98年WGP125ccチャンピオン)
・青木治親('95年・'96年WGP125ccチャンピオン)
・佐藤琢磨('01年イギリスF3チャンピオン)
など、モータースポーツ界には「彼らにこそ国民栄誉賞を!」という対
象がいくらでもいる。真に活躍している人間が世間に認知してもらえず、
どうでもいい人間があるかどうかも判らない「功績」を称えられるなど、
不公平以外の何モノでもないと俺は痛切に思う。
「単におまえがモータースポーツ好きだからだろ?」と言われれば確か
にそれまでではあるが(爆)、それでも俺は現在の「国民栄誉賞」制度に
は納得できない。
それに、授与対象に値する活躍/功績を持っていたにもかかわらず、制
度創設以前だったばかりにその恩恵に預かれなかった人間のコトを考える
と、それもまた不公平だと感じる(例えばパナマ運河建設に寄与した青山
士や、日本初のハリウッド俳優となった早川雪舟なども、俺としては国民
栄誉賞を与えていいと思っている)。
どちらにしろ、こんな曖昧な基準をもって与えられる賞など、一度見直
した方がいいのではないだろうか?

