2002年5月
     
  1. いちばん下から見えるモノ(2002/05/30)

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いちばん下から見えるモノ


  「日雇い労働者」と呼ばれる人々がいる。その多くは土木工事に従事し
 ているコトが多いが、最近では不況による仕事の減少や、彼ら自身の高齢
 化により、仕事にありつくコトすらままならない状態が多い。
  彼らの多くは「ドヤ」と呼ばれる木賃宿に宿泊し、毎朝「手配師」と呼
 ばれる人間(彼らに仕事を斡旋する人種。ヤクザの息がかかっているコト
 もあったりするが)のもとに群がり、その日の仕事にありつこうとする。
 あぶれた人間はまたドヤに戻るが、そのドヤに泊まる金すらも持たない者
 は、路上での生活を余儀なくされる。

  彼らは、この日本の中でも特定の街の中のさらに特定の場所に集中して
 存在する。山谷(東京都台東区)・寿町(横浜市中区)・釜ヶ崎(大阪市
 西成区)といったエリアがその代表だ。
  世間は彼らを「社会の敗残者」あるいは「汚物」としてしか扱わない。
 そして、自分の子供に対して

  「ああいうところには、危ないから近寄っちゃいけませんよ」

  と言う。
  ある意味では、確かにそれらの場所は「危ない街」だ。
  だが、そこを「危険な場所」にしているのは、彼ら自身というワケでは
 ないのだ。仮にそうだったとしても、それは要因の全てではなく、ごく一
 部分にすぎないのだ。

  今回は、俺が11年前に釜ヶ崎で体感した現実を書き綴るコトで、最下層
 の人々の実情というモノを少しでも伝えられたら…と思う。


  その前に、俺がなぜ釜ヶ崎へ行ったのか、その経緯を話しておく。

  今から13年前、俺が高校を卒業したばかりの頃。TBSラジオで『ティー
 ンズダイヤル』という番組がオンエアされていた。解りやすく例えるなら、
 現在NHK教育テレビで放送されている『真剣10代しゃべり場』のような番
 組だと思ってもらえればいいだろう。ただ、『ティーンズ〜』が『しゃべ
 り場』と大きく違うのは、リスナーから電話で意見を募り、パーソナリテ
 ィとリスナー・あるいはリスナー同士が意見を闘わせるというコンセプト
 だった点だ(生放送の強みとも言えようか)。
  番組は1年間でオンエアを終了したが、その番組オンエア当時、スタッ
 フが発行する『ろばみみ通信』というミニコミ紙(もちろん番組とリンク
 している)があり、それは番組が終了してからも引き続き有志の手によっ
 て発行が続けられていた。そして、俺も番組終了後にその「有志」に加わ
 ったスタッフのひとりだったのだ。
  この『ろばみみ通信』がきっかけで、俺は番組のパーソナリティをして
 いた、フリーライターのKさんと知り合いになった。

  1990年末。そのKさんが、取材で釜ヶ崎に長期滞在していた。
  この頃、現地では労働者たちの暴動が起きたりしており、ニュースでも
 取り上げられていた。そして、労働者たちの置かれている厳しい状況や、
 暴動の「鎮圧」にあたる西成警察署&機動隊の狼藉ぶりを、俺はKさんか
 ら聞かされていた。そこで、釜ヶ崎の「現実」がどのようなモノなのか、
 『ろばみみ〜』でも取材しようというコトになり、俺とI氏(有志スタッ
 フのうちのひとり)で現地へ赴いたのだ。

  そして、1991年の年明け早々、その「事件」は発生する。


  釜ヶ崎の地区内では、ボランティアの有志が、路上生活を余儀なくされ
 ている労働者のケアを行っている。公園での炊き出しや、地区内を巡回し
 て毛布を配給したり、具合は悪くないか等のヒアリングをしたり。それは
 「人民パトロール」と呼ばれているのだが、西成署は多数の機動隊員を動
 員し、これを排除・妨害しにかかるのだ(デモ行進とは違うため無届けな
 のだが、警察的にはそれが問題のようである)。
  12月30日のパトロールでは、完全に行く手をふさいだ機動隊との押し問
 答のあげく、小競り合いから機動隊による武力制圧へと発展。ひとりは警
 棒で顔面をしたたか殴打され、鼻の下を数針縫うケガを負った。

  そして、事件が起こったのは1月2日。
  この日のパトロールは、梅田地下街にて展開された。釜ヶ崎の地区内で
 は機動隊を動員してなりふり構わぬ攻撃をしかけてくる大阪府警も、1歩
 「外」に出ればそこまでの行為には及んでこない(さすがに「市民」の目
 が気になるのか)。だがその代わりに、巧みに変装して労働者を装った私
 服警官を多数潜り込ませ、ちょっとでも警察の意にそぐわない動きがあれ
 ば鎮圧せんと、その目を光らせている。あるいは遠巻きにしつつ、パトロ
 ールに参加している人間の姿をカメラに収めるのだ。大方、署(もしくは
 大阪府警?)のブラックリストにでも勝手に登録しようという腹づもりか。
  そんな中、パトロールに参加していたKさんと他1名の女の子に対して、
 ある私服警官が信じられない台詞を吐いたのだった。


  「どうせオッサンらに股開いとんのとちゃうんか?公衆便所!」


  一般人同士の会話であっても、許されざる表現である。当然、パトロー
 ルの他の参加者も全員激怒し、その警官に詰め寄って謝罪を要求する。
  だが、その警官は巧みに抗議の輪をすり抜けて逃走した。もちろん謝罪
 などせず。しかも、逃げ際に労働者のひとりを地下街の階段から蹴り落と
 すという暴挙までやらかして。
  それをきっかけとして、西成署に対する抗議の声はまたも大きくなって
 いった。


  そして1月3日夜。ひとりの女性が、釜ヶ崎の地区内で、前日Kさんに
 暴言を吐いた問題の警官を発見。問い詰めようとしたところ、その警官は
 顔をタオルで隠して西成署内に逃げ込んだ。
  ニュースはあっという間に地区内をかけめぐり、西成署の前で当のKさ
 んを含む十数人が抗議の声をあげ始めた。
  やがてその人垣は徐々にふくれ上がり、多くの労働者とその支援者たち
 が、西成署の正面に集結し「あの警官を出せ!謝罪させろ!」と、声を大
 にして要求する。その人垣の中に、俺もいた。
  しかし、ただそれだけの要求をしているにすぎない市民に対し、西成署
 の用意した回答は、ジュラルミンの盾と特殊警棒だった。つまりヤツらは、
 俺たちの声などハナから聞くつもりはなかったのだ。

  しばらくにらみ合いが続いていたが、突然機動隊が動き出した。どこか
 で起きた小競り合いを号砲代わりにして、俺たちを「武力」で鎮圧しにか
 かり始めたのだ。
  日頃から訓練している武装警官たちに対し、我々「丸腰の市民」はあま
 りに無力だった。

   ある者は数名の警官に、半ばリンチ同然にボコボコにされた。
   ある者は警棒で後頭部を乱打され、脳浮腫を起こして入院した。

  警官たちの圧倒的物量に押し切られる形で、市民はじりじりと退却を余
 儀なくされる。やがて、警官によって西成署前から排除された市民は、釜
 ヶ崎地区の真ん中にある公園(通称「三角公園」)まで撤退せざるを得な
 くなった。
  だが、俺は彼らとともに三角公園まで行くコトはできなかった。

  警官と市民の衝突の中、俺は労働者に警棒を振り下ろさんとする機動隊
 員の背中を目撃した。「何しとんじゃゴラァ!!」と、俺はその機動隊員
 の背中に挑みかかる。
  と、その途端、俺は背後からものすごい勢いで襟首をつかまれた。他の
 警官に拉致られたのだ。
  労働者を武器から救わんとした俺の行為も、ヤツらにしてみれば「暴行
 未遂」と「公務執行妨害」でしかないらしい。俺は柔道の送り襟絞めよろ
 しく、背後からジャケットの襟元を締め上げられながら、ずるずると署内
 へ引きずり込まれる。
  「く、苦し…い…」
  首根っこをつかむ手はその力を緩めず、俺の意識はうっすらと遠のく。
 かけていたメガネも、もみ合いの中で壊れてしまった。
  そして、俺は騒乱の声を背後に聞きながら、署内へ連行されてしまった
 のだった。

  取調室で、俺は数名の警官に囲まれ、さまざまに詰問された。Kさんに
 迷惑はかけたくなかったし、当時勤務していた会社にもこのコトはバラし
 たくはなかったので「言えません」と供述を拒否したが、警官は

  「ナメた口きいとったらアカンぞ、このガキ!」

  と言いながら、俺の頭を平手で1発張り倒した(といっても、それほど
 思い切りではなかったので痛くはなかったが)。

  「これが他の労働者のみんなとかだったら、有無を言わさずボコに
   するんだろう…」

  と思った。
  そして、ヤクザもかくやというタチの悪い恫喝(しかも数人がかり)に
 耐えきれなくなった俺は、ついに自分についての情報と、Kさんについて
 の情報を西成署員に対しゲロってしまった。
  何であの時に公選弁護士を呼ぶとかのスマートな対処ができなかったの
 だろう。今でも悔しく思っている。

  いくつかの取り調べを受けた俺は、約30分ほどで「釈放」され、署の裏
 口からシャバに放り出された。
  身体が小さく震えていたのは、冬の空気の寒さのせいではなく、

  「市民」の味方をしてくれない警察に対する怒りと、
  そんな警察の恫喝に屈してしまった自分に対する怒りのせいだった。


  あれから11年。以降、俺は同じ街に住み続け、10代から30代へと年齢を
 重ねた。
  テレビのニュースは、より悲惨なできごとか、さもなくば愚にもつかな
 い話題に注力し、いつしか釜ヶ崎のニュースは俺の耳に届かなくなった。

  でも、俺は決して忘れてない。
  あの日、俺がこの身をもって体感した以上の苦しい現状を、釜ヶ崎の労
 働者のみんなは生きているのだ。
  世界の中枢を占める肩書きの者たちからは受け入れられない、−社会構
 成員にすら含まれない「声なきアンダーカースト」の人々。
  11年前のあの体験は、俺にとって決して間違いではなかったと思ってい
 るし、今の俺をつくる上で重要なファクターのひとつになったと思う。

  彼らが、この国のピラミッドのいちばん下から見続けてきた世界、−そ
 れは、人間が人間として生きるコトすら許してもらえない不条理な世界だ
 った。
  この国の真実は、日常からは隠されたところにそうして潜んでいたのだ。


  1月3日の暴動の時、ある労働者は、仏頂面でジュラルミンの盾を構え
 る機動隊員の前で、怒るでもなく叫ぶでもなく、ただハーモニカを吹き続
 けていた。


   俺らの姿を見ろ!
   俺らの声を聞け!

   俺らも、おまえらと同じ「人間」なんじゃ!


  物悲しくもあるハーモニカの響きの中に、そんな叫びを俺は感じた。


  その「叫び」がこの国の中枢に届く日は、果たして来るのだろうか。

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