2003年2月
- 『家族の肖像』の肖像(2003/02/04)

かつて、こんなCMがあった。
「世界でいちばん大切なのは、家族です」
ジョン・レノンの「Imagine」をBGMに、画面にはレノン自身のイラスト。
ちょっと胸にささるCMだった。
しかし、本当に『家族』をいちばん大切にしている人間ばかりではない。
時に血を分けたもの同士であり、時にもっとも近い他人でもある、−それ
が『家族』であったりする。
今回は、自分がかつて体験した話と、知人から聞いた話をまじえ、『家
族』というものについて考えてみる。
その知人(仮にAとしておく)は、家族というものに対してよい印象を
持っていなかった。Aの父親が、いわゆる「暴君」だったからだという。
自分の(論拠もろくにないような)意見を押し付け、それに少しでも反抗
すれば返ってくるのは口汚い罵詈雑言。機嫌が悪ければ、それに加えて鉄
拳制裁のオマケまでついてくる。
「俺が食わしてやってるんだ、ガチャガチャ文句言うな」
それが数少ない拠りどころだったのか、ふた言めにはそんなことを口走
る。もちろん、何か買ってもらったでもなければ、どこかへ連れていって
もらったでもない。優しくされた記憶などこれっぽっちもなかった。
そんな父親のもとで育ったAにとっては、家族というものはその程度の
ものでしかなかったという。そして、他の家族も似たりよったりだろう、
−Aはそう思っていた。
だが、Aの周りには、そのようなケースに身を置いている人間はほとん
どいなかった。親にいろいろなモノを買ってもらったり、外へ連れてって
もらったり、いたって普通の幸せを営む家庭に育っている人間ばかりだっ
た。
「自分の親があんなだったから、そんな幸せな家庭が信じられなかっ
た。みんなして嘘ついてんのかと思ったくらいだった」
と、Aは言った。
ある日、Aは友人との会話の中で、
「自分の家族が嫌い。あんな家、早く出ていきたい」
と言った。しかし、その友人はAの気持ちをくみ取るどころか、「実の
家族に対してそんなこと言うなんて信じられない」と言った。
その友人は親からひどい扱いを受けることもなく、特に不自由もせず幸
せに育ってきた人間だったという。それゆえ、基準になっているのが「家
族=幸せなもの」という観念だったのだろう。
自分が幸せだから、他人の置かれている環境に思いが至らない。
自分が幸せだから、他人もきっと幸せに違いない。
「…あんなタイプの人間にはなりたくない」と、Aは呟いた。
そして俺も、父親というものに対しては、よい印象を持っていなかった。
それでも、Aと違い、直接手をあげるということは殆どなかったため、フ
ィジカル的には苦痛を味わうことは少なかった。
だが、父親はどうも外に女を囲っていたらしく、たびたび母と口論にな
ることも少なくなかった。布団にもぐりながら、2人が言い争う声を身を
震わせながら聞いていたことも覚えている。
そして、俺が中学校に入学した翌日、書き置きひとつ残して母は家を出
た。翌年の5月に母は戻ってきたが、その間、父親から愛情らしきものを
受けた覚えはなかった。
そして、母が死んだ後、高校3年生の1年間も、諸事情から父親と過ご
すことになったが、やはり家族の愛情を感じることはなかった。むしろ父
親は、早く俺を厄介払いしたかったようで、
「高校は卒業させてやるが、卒業したらさっさと家を出て行け」
と言い放った。
俺には抗う術はなく、必死で小金をためて、安いアパートを借りて父親
のもとを離れた。
それから8年。カミさんと結婚式を挙げるにあたり、俺は父親を呼ぼう
と思った。たとえいい思い出がなくとも、母がいなくなってしまった以上、
父親が俺にとっては唯一の肉親。働いてちゃんと金も稼げるようになり、
人並みに家庭を持つにあたり、せめて結婚式には出てもらいたい、−それ
が偽らざる心情だった。
数年来連絡をとっていなかったコトもあり、まだ昔の住所にいるかどう
か不安もあったため、招待状を送る前に電話で連絡をつけるコトにした。
幸いにして父親はそこにいた。引っ越してはいたが、以前の住所からそれ
ほど離れていないところとのコトで、電話番号は変わっていなかったらし
い。
おそるおそる、結婚式を挙げるので参列してほしい旨を切り出す。心の
どこかで、色よい返事を期待しながら。
しかし、次の瞬間俺の耳に飛び込んできたのは、想像だにしえない冷淡
なひとことだった。
「ふーん、結婚式か。オマエもたいそうな身分になったモンだな」
一瞬、父親が何を言っているのか理解できなかった。怒るとか呆れると
かという感情を感じる前に、頭の中が真っ白になってしまった。
それでも俺は「招待状は送るから、返事だけでもくれ」と伝えた。父親
の口調のはしばしに、期待していたような返事はまず返ってこないだろう
という絶望に似た感覚を抱きながら。
数日後、戻ってきた返事は、当然のごとく「欠席」だった。どうやら父
親にとって俺は、厄介払いしたくてたまらない「過去の忌むべき思い出」
でしかないようだった。
そしてつい最近。伯母からとんでもない話を聞かされた。
俺を身ごもって実家に帰省した母親に対し、父親は
「産むなら女の子しか許さん。男を産んだら戻ってくるな」
と言い放ったというのだ。
なぜ父親がそのような考えをもっていたのか、今となってはもはや知る
由もないが、俺が父親から愛情らしきものを与えられずに育った理由が、
何となく解ったようにも思えた。
それでも、最近世間で頻発している数々の「事件」に比べたら、俺やA
はまだマシだったのかもしれないとも思う。
保護責任を遺棄し、食事も与えず子供を放置する親。
単なる体罰のレベルを通り越した虐待を子供に対して繰り返し、
しまいにはその生命を軽々しく奪ってしまう親。
あまつさえ、実の子供に性的虐待を加える親までも世間にはいる。
自らの血を分けた分身である子供に対して、なぜそれほどまでに冷酷に
なれるのか。
そんなマネをするくらいなら、なぜ子供など産むのか。
まだ「親」ではない俺ですら、そんなニュースを見るたびにふつふつと
怒りがわき上がるのを感じる。
子供とは育っていく中で、イヤでも親の背中を見続けなければならない
ものだ。
その「背中」が、煤けて汚れきった、もはや「鑑」にすらならないモノ
だとしたら…。
俺もAも、父親の煤けた背中を反面教師にして生きてきた。自らが親に
なるその時、子供にどのような生き方を見せるべきかを考えながら。
子供は、親を映す「鏡」である。
だからこそ俺は、子供にとっての「鑑」でありたい。
自分自身の姿を映す「鏡」である子供が、曇ってしまわないように。

