2002年3月
- 法と犯罪と人権と(その7)(2002/03/20)

『法』とは、いったい何なんだろう。
それは本来、我々市民を庇護してくれるモノであるはずだ。そして、そ
うでなければならない。
しかし、その『法』が我々を守ってくれないとなったら、我々はいった
いどうしたらよいのだろう。そして、その『法』の執行者である司法官が
我々の願いを聞き入れてくれなかったら…。
今回は、この国の司法に対して深い絶望を感じた2つの裁判を取り上げ
たい。
このシリーズの第1回目でも取り上げた、山口県光市の母子殺人事件。
その控訴審判決が、3月14日に広島高裁で下された。
判決は「無期懲役」。遺族である夫・本村洋さんの願いも、多くの人々
の祈りも、裁判官の耳に届くコトはなかった。
判決文の中で、裁判官は被告の「更正の可能性」を指摘し、検察の死刑
求刑を退け、無期懲役を言い渡した。そしてその判決文において、「犯行
に計画性は認められない」との判断を示した。
…ちょっと待てと言いたい。事前の計画も何もない「衝動的な犯行」な
らば死刑にするまでもないとでもいうのか。
己が欲求を充足するために、罪もない母親を殺害・陵辱し、挙げ句その
横で泣き叫ぶ赤ん坊を床に叩きつけてその命を奪い、死体を押し入れに隠
して財布を奪った、…その所業のどこに情状酌量の余地があるというのだ
ろうか。
本能に忠実に従い、自らの欲望のためなら人の生命すら露ほどとも思わ
ない。むしろ計画的犯行よりもよほど残虐ではないのか。
しかもこの犯人は、拘置所の中から友人に宛てた手紙の中で、
「どうせ無期(懲役)だったら、7年そこらでまた戻れる」
「あの男(=本村さんのコト)調子に乗ってんじゃないの?」
などと、反省のかけらもない台詞を吐いたと言われている。
どんなに客観的に冷静に考えたところで、こんな鬼畜のどこに「更正の
可能性」を認めるコトができるというのか。
遺された本村さんが、犯人について
「できるなら、今すぐにこの手で殺してやりたい」
と慟哭したその思いを、裁判官たちはどのように聞いたのか。
個人による「仇討ち」が法律上認められていない現代では、被害に遭っ
た人々は「法の裁き」にその望みを託すしかないのだ。その『法』が犯人
を裁かないのでは、被害者・遺族は何に救いを求めればいいというのか。
そして、3月19日。9年前に新庄市で起こった「中学生マット殺人」。
事件に関わった7人のうち、4人は有罪とされ処分を受けた。そして、刑
事裁判では最高裁でも「7人全員が事件に関わった」との判断が下された。
−その事件の民事訴訟の判決が、山形地裁であった。
こちらに至っては、原告の訴えは「全面棄却」。7人全員の事件への関
与を否定したばかりか、あまつさえ
「事件性すら認定できない」
と、まるで「自分からマットにくるまって死んだんじゃないのか?」と
でも言わんばかりの冷淡な判決だった。
仮に、自分からマットに頭を突っ込んだとしても、それがいじめによる
「強制」だったかもしれないという可能性には思いをいたさないのだろう
か。
「逆らえば殴られる・蹴られる。だったらしょうがないからマット
に入るしかない…」
裁判官も「日常的にいじめがあった」というコトは認定している。だっ
たら、それくらいのいきさつがありうる…ということを想定できないのか。
「7人全員にアリバイがあり、自白の信用性は薄い。警察の取り調べも脅
迫的だった」などというが、バカな親どもを言いくるめてみんなで口裏を
合わせりゃ、アリバイなんていくらでも捏造できよう。いじめの実行者・
加担者なんて、それくらいの悪知恵はいくらでも働かせるモノだ。
それ以前に、裁判官が「死人に口なし」とも言えるような判断を下した
コトに、俺は怒りを通り越して驚きを隠せない。
体育館の片隅、陽もあたらない用具室の中で、マットに埋もれて死んで
いった少年の無念を思えば、このような判決を下せるとは到底思えない。
司法判断に感情論は禁物なのは解るが、それでもこれほどまでに無慈悲な
判決を出せるのなら、何も裁判官が人間である必要などないではないか。
ロボットで充分だろう。
今回、この2つの裁判で、この国の『法』はすでに死んでいるとの思い
を強く感じた。そして、その『法』を取りしきる裁判官が、ことごとく人
間としての感情に欠けているコトも思い知らされた。
いずれも、検察/原告弁護団は上告/控訴してもらいたい(というより、
そうする義務がある)。そして裁判官は、もし少しでも人間的な心を持っ
ているなら、どうか被害者の切実な心情をくみとって、多くの人々が納得
できる判決を下してもらいたい。
この国の司法が「まだ生きている」と証明するためにも。

