2003年5月
     
  1. 緩慢なる死との決別/苛烈なる生への挑戦(2003/05/30)

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緩慢なる死との決別/苛烈なる生への挑戦


  人間も30歳を過ぎると、人との永訣(わかれ)に接する機会がやたらと
 多くなる。
  ある程度年齢を重ね、天命を全うしたケースならともかく、まだまだ生
 きるはずだった人、−途半ばにして亡くなるケースを目の当たりにするの
 は、何度経験してもショックが大きいものだ。

  そういった『逝きし者の無念』を思うたびに、生きることの意味を考え、
 遺された者の使命として、これからも生きていくべきであることを痛切に
 心に刻む。
  2002年2月にも同じことを書いたが、

  「生きている者たちは、逝った者の想いを引き継いで生きる義務が
   ある」

  と、俺はそう思っている。


  そして、遺された者たちは、その生をただ漫然と「生きる」だけではい
 けないと思う。
  故人の果たせなかった想いや、中途で消えてしまった生命の灯を引き継
 いで生きる以上、故人に対して恥じることのない人生を、−少なくとも、
 自らの心に照らして、ネガティブなファクターをもって省みる必要のない
 ような、胸を張った人生を生きるべきであると、俺は思っている。


  仮に、周り(親類縁者や友人など)に逝ってしまった人間がいなくとも、
 想いを引き継いで生きるようなことがなかったとしても、人間の生命とは
 絶対的なものであると俺は思う。
  どれほどの悲しみに引きずられても、これから先歩んでいく道のりに何
 らの希望が見出せなかったとしても、人生を・生命を軽々しく投げ出すよ
 うなマネはしてはならないはずだ。
  どれだけ暗い絶望の深淵に置かれていたとしても、生きてさえいればそ
 の先の人生に何らかの希望を見つけることのできる可能性というものがあ
 る。
  少なくとも、その「可能性」が全くないなどとは誰にも断言できない。
 もちろん、希望が必ずあるとの断言だってできはしないが、生きるという
 ことは、すべからくあらゆる「可能性」を捜し求め続けるということに他
 ならないのではないだろうか。
  突き詰めれば、生きることそのものが「可能性」であるとも言えるはず
 である。


  生きることこそが、生命こそが、

  『絶対的存在』

  なのだ。


  だからこそ、俺はその『絶対なるもの』である生命を、軽々しく掌の上
 で転がし玩ぶようなマネをする人間の存在がガマンならないのだ。

  不安・焦燥・孤独にさいなまれ、自らの血を危険にさらさなければ存在
 理由(アイデンティティ)を獲得できない人間。
  世界を・他人を自らのもとにつなぎとめるために、たったひとつの生命
 をまるで駆け引きの道具のように扱う人間。
  死を選んでなお、ひとりでいることの空虚さに耐え切れず、ナカマを募
 ってこの世を去ろうとする人間。

  カタチや理由はどうであれ、死というものをさながらワイルドカードの
 ようにチラつかせながら生きる人間を許せるほど、俺は心の広い人間には
 なれない。


  本当に絶望にさいなまれて死を選ぶなら、その瞬間はただひとりで選ぶ
 べきものではないのか。少なくともひとりきりで死んでゆく分には、周囲
 に及ぼす迷惑や影響も最小限で済むというものだろう(「その瞬間」に際
 して他人を巻き込まない分だけ)。
  それができずに他人をやたら巻き込むのであれば、それはまさに

  「『緩慢なる生』の延長線上に横たわる『緩慢なる死』」

  というものであろう。


  生きるということは、死ぬこと以上にさまざまな事象にとりまかれるも
 のであり、それゆえに苛烈なるものである。
  しかし、その苛烈なる生を自らに課し、全てを受け入れて生きることが、
 人間としてこの地上に生を受けたからには果たすべき義務ではないのだろ
 うか。


  死の苦しみをも遥か上回る『苛烈なる生』を受け入れて生きる者は、何
 らの意味すら持たない『緩慢なる死』を選ぶことはない。
  赤黒い血の偽りの甘さに心惑わされ、死の向こう側の景色に思いをいた
 すなら、


  その血で『緩慢なる死』への絶縁状をしたためろ。
  そして、
  血を流しながらも続いてゆく『苛烈なる生』へ挑戦状をたたきつけろ。


  「自分は、この生命を燃やし尽くしてやる。
   あらゆる絶望になんて負けてやらない」

  と。


  それができないというなら、俺は止めだてなどしない。
  そのまま『緩慢なる死』に抱かれて、
  螺旋階段を地の底まで転がるがいい。

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