2004年2月
- 法と犯罪と人権と(その9)(2004/02/29)

最近(特にここ10年ほど、と言うべきか)「犯人は精神を病んでいる」
としか思えないような犯罪が多発しているような気がする。
学校帰りの子供たちをつけ回し、殴ったり切りつけたり。
ストーキングの果ての陰惨な殺人。
先日1審判決がようやく下された、オウム真理教のテロ。
大阪大学付属池田小での乱入無差別殺人。
それ以外にも、数々の通り魔や、信じがたいほどの動機によってなされ
る数々の犯罪について、俺はそのように感じている。
そして、それらの犯罪は、いざ裁判になると往々にして、弁護側が容疑
者(被告)の精神鑑定を要求するケースが多い。特に、犯した罪の事実が
厳然として存在し、簡単には無罪を主張できないときに、決まって切り札
のごとく用いられる手段とも言える。
刑法第39条には、以下の記載がある。
(心神喪失及び心神耗弱)
第39条 1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
つまり、心神喪失者は
「自己の行為に対して責任能力がないから、罪には問えない」
ということになる。ある意味では「究極の『無罪』」とも言えよう。
だが、これは果たして許されることなのだろうか。
遺族の立場になって考えた時、自らの愛する者が理不尽に生命を奪われ
たにもかかわらず、犯人に対してその贖罪を求められないというのはどう
いうことなのか。
ぶっちゃけ
「キチガイは罰されませんから、何したっていいんです」
というのであれば、まさに被害者は「殺され損」でしかないではないか。
ヒトを殺しても、精神が破綻してるから罪には問えない。だから無罪。
そしてヤツらは、再び「野に放たれる」。
惨劇の連鎖は繰り返されるばかりではないのか。
刑法39条には、個人的に2つの問題点があると思っている。
まずひとつは、上述したように、心神喪失というだけでその罪が問われ
ないという点だ。
罪を犯した者には、それを贖う義務があるはずだ。それは、たとえ犯人
がいわゆる「キチガイ」であったとしても同じこと。
能力の有無が問題なのではない。罪を犯したということそれ自体が問題
なのではないのか。
たとえ精神異常者であっても、きっちり裁判にかけて、裁きを受けても
らうべきである。遺族心情に鑑みたら、そうするのが当然であろう。むし
ろ、犯人が精神異常者であればなおのこと、そんな人間を無罪放免にして
世間に野放しになどしてほしくない、と思うものではないだろうか。
また、よくよく考えると、「心神喪失なら罪は問えない」と認定してい
る時点で、ある意味では犯人を『人間扱いしていない』とも言えるのでは
ないだろうか。
「おまえは人間ではありませんよ、アタマがおかしいんですよ。
だから裁判なんか受けさせてあげませんよ」
と、−刑法39条はまるでそう宣言しているようにも解釈できる。
被害者の(蹂躙された)人権には目を背け、加害者の人権ばかりを過剰
に擁護するこの国には珍しい「片手落ち」な法律ではなかろうか(笑)。
どうせ加害者−いや、鬼畜どもばかりを人間扱いしてちやほやするのなら、
心神喪失者−というかキチガイどもをも裁判の俎上にあげることで、ヤツ
らを「ニンゲン」として認めてやったらいいだろう。
どうせ甘々な『似非ヒューマニズム国家』なら、それくらいのことまで
してみやがれ、と言いたい。
(※これまでの「犯罪者に人権など不要!」という俺の論旨に矛盾
するのでは?と思われている人もいらっしゃるかもしれないが、
決して甘々な偽善的人権意識をひけらかすわけではない。裁判
受けさせて結局は死刑にしてもらうのが目的なのだから、最終
的にはキチガイも含め、犯罪者の人権は剥奪されるんですよ…)
そんな理由から考えて、刑法39条は早々に廃止してもらいたい。この法
律のせいで泣いている犯罪被害者がどれだけ過去にいたのかということを
考えると、つくづくそう思う。
最近では、薬害エイズ事件で拘置中の安部英が、痴呆にも似た心身喪失
状態になってしまい、責任能力が失われたとみなされ、裁判が終結に追い
込まれそうな状態になっている。これも、刑法39条が生んだ悲劇のひとつ
ではないだろうか。
そもそも、基本骨格が明治時代に作られたような法律で、現代のあまり
に(悪い意味で)多様化した犯罪を裁こうということ自体が、司法の破綻
を意味してはいないだろうか。
イラク法案とか郵政民営化とかいう前に、
もっと根本的なところで改革すべきものがあるのではないのか。

